DV加害者プログラム 続編
被虐待児への対処で最初に必要とされる言葉が「あなたが悪いわけではない」です。3歳から6歳ごろまでの幼児期は、子供たちはあらゆるものの中心に自分がいると感じています。「快」「喜び」の経験は「自分がいい子だから」という因果による意味を形成し、そのことで世界は秩序観をもつことになり「よい自分」「生きていい自分」の核が根付いてきます。
そのようななか、父親が母親を殴り母が泣き叫ぶ場面に遭遇すると子供の世界観は引き裂かれ壊れるに違いない。両親が繰り広げている修羅場は、子供にはどうしてよいかわからない・・子供は混乱し「自分が悪い子だからこのようなことになるのだ!」と説明を自分に向け始めます。こうすることで子供なりの説明がつくようになるのでしょうか。
ACの人々は「自分のせいだ」と考えることでしか、世界を秩序立てられなかったのでしょう。いわば、サバイバルスキルとしての自己認知をするということです。ここには「生きてていいのだろうか」という生きづらさを抱かせてしまったのでは。つまり、罪悪感、責任感となっていったのです。このことを親たちは自覚さえしていないのが現実です。
周囲は「人のせいにするな」と彼らを非難さえする。でもそれを「免責」していく必要があるように感じています。「あなたが悪いのではない」ということで荷下ろしができ、世界が違って見えてくるに違いありません。この時点で初めて「適正な自分」と出会うことになるのです。
被害者としてのままで親を語ると「親だって何等かに理由があったのではないか」「私のために親はしてくれたんだ」と親をかばい、親の立場に立って自分を責めてきたに違いない。彼らが被害者としての経験を語ると、後には自己嫌悪、罪悪感に陥ることになった。親に対する感情をすべて肯定しなくてはいけなくなるからだ。親に対して中年になった彼らが謝罪を求めることは当然なことだとさえ思うが、表せかたが問題となる。ストレートに投げつけると逆効果。また、謝らせること自体が問題だと思っている。加害者親は先ほども言ったが、何も覚えておらず、意識にさえないのです。それどころか「いまさら何を?」「いつまで甘えているのだ?」と逆切れするのがおちだ。そこで一言「親が変わるのを期待しない」ことです。
ACとのかかわりの中で考えたことがあります。一応セラピスト、カウンセラーという立場は中立的でなければいけないのですが、“親だってなんらかの理由があったのでは”という考えは中立ではなく親の立場に立っていることになると気付いた。親=加害者側の立場に加担することになるのだということを。
あと一点気づいたことがあります。自分の生育歴を語れず、親の生育歴を話し始めるのです。彼らの生育歴は親との関係そのものなのです。自分の欲望でなく、親の欲望を優先して生きてきた人たちなのだということをあらためて知ることになった。
(G記)