窮屈な自粛生活
6月も終え、コロナウイルスの自粛緊急事態宣言が解き放たれ、巷はこれまで通り人であふれ始めている。経済的効果にはふさわしいのであろうが、医療情報としては「第2波が到来してきそうだ・・・」と言われている。
3か月間の自粛生活をこれほどまで窮屈だと感じたことがあろうか。先日、知人に尋ねてみました。<今回の生活偏狭いかがでしたか?>「別に、これまでと変わらず特別窮屈だとも思いませんでしたが・・・」と返答された。<?>「これまでも、今後も、同じ生活が続くのだと思います。」その方は夏野菜、果樹を栽培し、自宅にはテレビなく、速報みたけりゃパソコンで・・と考えている方でした。ご自身のライフスタイルをされているのです。
私たちは日常生活の工夫をすることもなく、当たり前のごとく電気製品・電力会社・製造部門の方々のお世話になり、生活を維持してきていることを改めて知らしめさせられました。そのうえでの余暇にエネルギーと金を注いできました。
先日の某社新聞に臨床心理士さんの声『社会季評』に載せられていた。『コロナウイルスで心はどう変わったか?』と問われての意見が記されていた。“ステイーホーム。社会を停止させるから家にいてくれ”と言われたが、結果として、ある家では心が損なわれた。24時間一緒にいる生活で、緊張と不安が高まり互いが敵に見えた。その結果、痛ましい暴力が生じた。コロナDVのことだ。一方で、心が再生した家もある。有り余る時間の中で数年ぶりにトランプをし、思いがけず楽しかった。するとじっくり話ができるようになった。
このように同じコロナ渦が違う体験になっている。同じ状況の中でも違ってくる。これが「個別性」というものだ。ケース・バイ・ケースを見ようとするときにだけ、心は見えてくると。
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心は不思議だ。心が存在するためには遅い時間がいる。シンプルに割り切らず、人間の複雑さを複雑なままに理解するためには、時間をしかない。ただし、そのためには下支えが必要だ。コロナ渦以前はそのような支えを社会が提供してくれていた。職場・コミュニテイのところどころに小さな居場所があり、学校は子供たちを預かってくれていた。昼の街と夜の街がぐるぐる回ることで、自分ひとりの時間が持て、ストレスを解消でき、慰めあったりすることが」できていた。
社会は多様なニーズを引き受けながら回っていたのだ。
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今回は、公衆衛生の圧倒的な強風が吹いたのだ。集団として生き残ることを目指すこの技術は、人間を個人ではなく、人口単位で扱う。だから池袋の街はがらんとし、あっという間にシンプルになる。社会的防衛のためには仕方がなかったのかもしれないが、そうやって「個別性=心」は社会のサポートを失ってしまったのだ。
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臨床心理士は時代を語るのには向かない。時代を引っ張り、リードするのではなく、時代の後ろをついて歩く仕事だ。それは時代の速度で歩けなくなった人とともに、その人固有の速度を探す仕事だ。そういう要と急があると思うのだ。
以上です。今だからこそ、自分らしく自分を守り、家族を守りやっていきたく考えます。
(G記)