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神経質と手をつないで生きる

筆者 :(T.Y) 1946年生まれ、香川県在住。趣味は、植物の世話。金魚、小鳥なども楽しみだが、いまは場所の関係から、山野草を中心にいろいろな花を栽培。

治ったような気はしませんが、
神経質性格と手をつないで生きております。

 太平洋戦争が終わった翌年の昭和二十一年、戦後の混乱期に生まれた私は、戦争のためとはいえ複雑な家庭のなかで過ごしました。
 当時は祖母と父母、私と妹。ここまでは普通の家庭と同じですが、父は再婚でしたので、病死した前の妻の子ども(私とは腹違いの兄)がおり、私の記憶ではこの六人家族でしたが、母の話では私が生まれたときは、父の兄弟たちが大阪から家族を連れて疎開してきており、そのうえ父は妹の子(私のいとこ)を養女として引き取って、育てていたということでした。
 このようにして、五世帯が一つ屋根の下で五年間、一緒に暮らしていたそうです。こういう家庭のなかで嫁の立場の母の気苦労は、相当なものがあったと推察します。戦争で食べるものにも困り、農家である父を頼ってこのようになったのでしょうが、私は生まれてすぐのことだったので、まったく記憶にありませんが、母からはいろいろともめごとが絶えない日々だったと聞いています。
 

神経症になったキッカケ

 私がまだもの言うことができない赤子のときに、母が田んぼから帰ると私の泣き声がするので家に入ったら、祖母によると「恒雄がものを言うようになったら、親に言いつけるようになるから、今のうちに叩いておけ」と言って、兄といとこが私の頭を叩いていたらしく、母があわてて私をとりあげたということを聞きました。
 私が物心ついたころには、父の兄弟やいとこももういませんでしたが、家のなかは三日にあげず口論ばかりだったのをおぼえています。母は「祖母と父がグルになって兄をかばい、自分と恒雄と妹を追いだしにかかっている」などといって、ケンカが絶えなかったのです。
 当時、小さかった私は何もわからず、母のことばを信じていたのですが、今思うと母も神経質で、被害念慮もあったように思います。父はケンカが起こるとすぐ親戚を呼んで親族会議を開くのでしたが、お互いが相手を責めるばかりで何の解決もつかず、親戚からは『この家は他人が一緒に暮らしているみたいだ」と言われました。
 親族会議には子どもだった私も出席させられて、父母の言い合いをしっかり聞かされていました。私が神経症になった源は?子ども時代のこのような家庭環境にあったように思えます。
 家庭のなかで、敵味方にわかれて、ケンカが絶えない生活であったから、だれが私に好意をもち、だれが私に敵意をもっているかに敏感になっていたのではないかと考えます。
 本心は、みんなに好かれ仲良くしたいのに、人からちょっと嫌なことを言われたり悪く解釈されたと思うと、もうこの人に嫌われたと思い、その人を避けてしまうクセが養成されたのではないかと思っています。その背景には私の神経質な性格が前述した環境に育ったために、人が私をどう思っているか?・嫌っているか好意的であるかを、つねに間うてきた人生を送為要因だったと考えます。
 また母の言うように、祖母たちが兄といとこを大事にしていたのが事実だとしたら、客観的に見てか私と妹は両親のもとで生活しているけれど、兄は実母に死なれ継母と暮らし、いとこは両親から離れ伯父の家で生活しているという、ふびんさがあったのかもしれないと考えるのですが、これもいまは亡き祖母の心のうちは知る由もありません。
 それでも小学校低学年のころは、近所の子どもたちと外が暗くなるまで、かくれんぼや缶けり、チャンバラごっこなどをして、一緒に楽しく遊んでいました。傍目には普通の子どもらしく映ったでしょうが、心のなかではヘンなクセがありました。学校へ行くのに、朝通った道と同じ道を通って帰らないと気がすまず、誘われて別の道を帰ると気になって仕方がなく、翌日はわざわざその逆を通ってもとに戻したりしていました。なぜかそうしなければ気がすまなかったのだがこれも、一つの強迫行為であったのかもしれません。これはいつの間にか治ってしまい、今はどこをどう通っても何ともないです。
 

いじめと死の恐怖

 子ども時代のもろもろの体験のなかで、もっとも私を苦しめたのは、学校でのいじめと死の恐怖でした。小学校四年生のころだと思いますが、理科の時間に宇宙の勉強をして、この地球ができたときはドロドロの火のかたまりであって、長い年月の間に冷えて今のような形になったこと、そして宙に浮いていて太陽の周りをまわっていることなどを学びました。
 その夜ふとんのなかで、火のかたまりで無の状態だった地球にどのようにして生命が生まれ、今のようになったのだろう。そして自分は今、こうして生きているが、いずれは死んでいく。自分が死んだあと何千年何万年とたつうちにこの地球はどうなっていくのだろう。そんなことを考えたのです。
 そうすると、胸の奥からこみ上げてくるような恐怖がわいてきました。いつかは必ずやってくる死、それが怖くて怖くて、寝ている両親をたたき起して「医者へ行って死なない薬をもらってきてくれ」と真剣になって頼んでいました。そんな薬なんかあるわけないのに、それを頼みながら居ても立ってもいられなくなり、気がヘンになったように外へ飛び出していました。
 外へ飛び出して近所の家の明かりを、風になびく木々を、そして夜空に輝く星々をながめると、スーつと気持ちが落ちつき、もとの状態に戻るのです。
 小学生の子どもが死を考えてこのようになるのは、明らかに異常であったのですが、両親からは「そのうちにもらってきてやる」と言われ、ほっておかれました。子どもの言うことだから、そのうちに言わなくなると軽く考えていたのでしょうか。それからは夜暗くなると毎日のようにこの発作が起こり、楽を頼んで外へ飛び出していました。
 ときを同じくして、学校から帰るときいつも近所の子どもたちと一緒に帰っていましたが、私一人がみんなから攻撃されて泣いて帰ったことがありました。内容は忘れたけれど、「四年い組の恥じゃ」とののしられたのだけは覚えています。
 泣きながら家に帰った私を見て、母からわけを聞かれありのまま告げたのですが、翌日学校へ行くと「親に言っただろう」とまたいじめられました。言いかえすこともできないまま黙って言われるままになって、二、三日、学校を休んだら、先生が心配して家へ来てくれたので、学校でいじめられたことを訴えましたが、先生は「そんなふうに見えるんだろう」と、取り合ってくれませんでした。母へは.「上から押さえつけてしまっているから、もう少しのびのび育ててほしい」と言っていました。
 幼少時における家庭での度重なるケンカと、学校でのいじめから、人間関係の感情的なトラブルに対して、非常に臆病な人間になっていき、だんだんと自分は人に嫌われる人間という考えかたが固定化していき、人前に出ると口数が少なくなり、何に対してでも消極的になり、人の言動に迎合するようになっていきました。当然のことながら、家へ帰ってもあまり外へ遊びに行くこともなくなりました。
 そんな生活のなかで、祖母が仏壇に供えるために門先の畑で花を植えており、その成長が目につくようになって、興味本位で苗をもらって育ててみました。自分で苗を植え、水と肥料をやり、大きくなって花が咲いたのを見るとうれしくなり、それから次々といろんな花を育てるようになりました。
 それがこの歳まで趣味となったはじまりです。小学生のときから人を避け、植物を育てることに楽しみを求めたのも、家庭内でのもめごとの絶えない生活と、学校でのいじめからの逃避ではなったかと思うのです。
 神経質で感受性が強かったために、感情的なトラブルを恐怖するようになったのだろうと思います。二歳年下の妹は三日にあげずケンカをしていたわが家のことをおぼえていないと言います。性格が違えばこんなにも差が出るのでしょうか。学校ではおとなしいといわれていましたが、人から何を言われてもケンカになるのが怖いので、黙ってガマンをしていただけで、自分の感情を抑さえてしまうクセがついたようです。
 社会人になっても人の顔色を見るのはあいかわらず、人の言動を私に対して不快感の表現と受け取り、ああだろうか?こうだろうか?とクヨクヨと考えて悩み、その人に会わなければならないようになると、憂鬱になってくるのでありました。
 

通信指導でイキイキ生活

 十八歳のころ、チクチクと腹が痛くなり、良くも悪くもならないので検査入院しましたが、どこも悪くなく神経科にまわされて、先生から『神経衰弱と強迫観念の根治法』という本を渡きれました.この本によって私が対人恐怖という神経症だと知りました。
 読み進むうちに対人以外にも、いろいろな症状のあることも知り、そのなかの音響恐怖(時計の振子の音)とそのための不眠に苦しむようになり、本を読むのが怖くなったので返しに行きました。先生は「何回も何回も読め」と言って受け取ってくれず、内科的には悪いところはないので退院になり、これで本が返せると思って持っていくと「持って帰って読め」と言って、受け取ってくれませんでした。
 東京に高良興生院があるのを知って、手紙を出して苦しみを訴えたところ、通信指導を受けなさいと言って、パンフレットを送ってきたので、受けることにしました。日記を書いて週一回送り、それに先生がコメントを書いて返送してくれるのです。会社でああ言われた、こんなことされたとグチばかり書いていましたが、指導を受けはじめて五カ月くらいより、少しずつ変化が出てきました。八カ月ころには百八十度考えが変わり、先生からも「ノイローゼは克服した」と言ってもらいました。
 通信指導をやめてしばらくは生き生きした生活であったのですが、二、三年たつうちにまた、もとの状態になり、会社の上司に苦しみを訴えていました(この人も神経症に悩み森田のことを良く知っていまじた)。
 この人、Oさんは、神戸の本社から転勤して来て、私と知り合ったのです。Oさんからいろいろアドバイスを受けていましたが、私のガンコな性格と理解の悪きゆえ困らせてしまいました。二十七歳になって結婚することになり、はじめてOさんから「医者へ行ってみるか」と言われ、近くの病院に連れていかれました。
 先生から「山下くん、人とのつき合いをしていないな、話してすぐわかった。それでは神経症になるわ」と言われ、つづいて「人間の性格は家庭で作られるんだぞ。キミが普通の家庭で普通に育っていたら、こんなにはならなかった。かわいそうだがやむを得なかったな。しかし、キミを治す前にお母さんを治さんといかんが」と言われました。
 先生は母を病院へ呼んで私の幼少時の家庭環境を聞いており、そのときに母に問題があることを感じたとのことでした。母が私と同じ症状であったのですが、母を強制的に治療はしなくて、私が受診したのでした。
 先生から薬をもらったのですが、薬局にその薬を見てもらいに行きましたら、薬剤師から「近くの病院では知った人に会うと困るでしょう。高松に磯島クリニックというのがあるので、行ってみたらいかがですか」と言われ磯島クリニックを受診して、やっと森田をする先生に会えました。
 先生から「神経症はその人の弱いところに出るんだぞ」と言われ、ケンカに明け暮れた幼少時の家庭環境から、人の顔色ばかり見るようになったのではと理解しました。そして、磯島先生から発見会のあることを教えられ、クリニックを受診しながら高松集談会へ出席するようになりました。
 当時、高松集談会は、先生の休みに合わせて木曜日に開かれており、勤め人の私は有給休暇をもらって出席していました。仕事の都合で休みのとれなかった月があり、電話で会員の人にそのむね、伝えていたのですが、次の月休みが取れたので会へ出席すると、先月休んだことを責められたのでもう一度理由を説明しました。
 それでも「オレが電話したのに来ななんだね」と語気鋭く怒鳴りつけられたので、このように人との軋礫が怖くて来ているのに、自分はどこへ行っても攻撃される、いじめられると考えて、集談会をやめてしまいました。
 そういうなかで、新たに家内と両親の折り合いが悪くなり、悩むようになりました。単なる嫁姑の問題だけでなく、母の神経症も関与していたようです。
 結婚して五年になり、Oさんも転勤で本社に帰ってしまい、こういうトラブルに弱り果てた私は、会社が人員削減で転勤を募っていたためこれ幸いと、家内と二人の子どもを連れて神奈川県へ転勤しました。すべて苦しいことから逃げることしか考えておらず、そこで新たに不潔恐怖に苦しむようになるとは、想像もしていませんでしたが……。
 

不潔恐怖で二度の転勤

 人間関係の軋礫から逃れてしばらくは楽になり、会社が横須賀に家を借りてくれたため、そこから通勤しながら休日には珍しさもあり、三浦半島、鎌倉、箱根などへ家族でドライブしたりしていました。仕事の内容もわかり会社になれるにつれて、化学工場なのでいろんな薬品をふんだんに使うのですが、溶剤が気になりだしました。ワックスを塗った車が水をはじくように、手首から先が水玉だらけになり、溶剤の臭いも残っているので仕事が終わればこれを洗い流すために、石けんで手を洗うようになりました。
 日がたつにつれて洗う時間が長くなり、同僚から「山下さん、まだ洗っているのか」と言われだして、日ごとに苦しみがひどくなり、退会していた発見会に再入会して横浜第二集談会でお世話になりました。毎月、横浜へ通っておりましたが、そこで基準型学習会をすすめられました。土曜コースを申し込み、小石川にあった本部へ三カ月間通って、はじめて森田の理論的な学習をしました。教えられたことはわかるのですが、感情はまったく変わらず、気になるままにスッキリするまで洗うばかりでした。
 当然のことながら、洗う回数と時間がふえていき、洗えば洗うほどひどくなっていきました。洗えば悪くなるという体験をしていながら、そして森田の理論を教えてもらっていながら、実行できませんでした(できなかったのではなくて実行する努力をしなかった)。
 会社で仕事をするのも苦しくなったので工場長のところへ行き、転勤してきたいきさつおよび、不潔恐怖で仕事ができないむねを打ち明けました。工場長は「溶剤なんか心配ないぞ。考えすぎだ」と言われながらも、部署を変えてくれました。
 部署を変わっても、一度とらわれたものは変わらなく、会社にあるものすべてに溶剤がついていると考えて、ふれることもできなくなりました。二度、工場長のところへ行くと「山下くん、四国へ帰るか?今のように家族がバラバラではダメだぞ。四国へ帰って家族が一つになって、キミだけ上京して、森田療法というのを受ければいいではないか」と言ってもとの職場へ帰してくれました。
 四国へ帰る最後の月に横浜第二集談会では、不潔恐怖のみをとりあげて、私だけのためにその日の集談会をつかってくださったのを、三十年たった今でも覚えております。ほんとうにありがとうございました。
 もとの四国の職場へ帰りましたが、四国の工場長は森田のことを理解してくれなかったので、高松集談会へ行こうかと考えました。やめてから十年もたっていたので入りづらい気もありましたが、思いきって行きました。
 会社のOさんは、出張で四国へ来たときは必ず、私と食事をともにして話をしてくださいました。「人の口に戸は立てられん。人は右に転んでも左に転んでも言うもんだ。言わしておく以外に術はないのだ。気になるものは気にしながら、ほったらかしにしておけ」「自分のことを理解してくれる人には感謝を、そうでない人を許していけたらいいんだがな」などなど教えられても、この許すということがなかなかできずに、その人を恨む生活でした(この態度が間違っていたのでしょう)。
 そのくせ、人と仲良くなごやかにできないと、人の顔色ばかり見てビクピクしていました。Oさんから以下のような手紙をいただきましたが、せっかくの忠告を生かさずに、長年苦しんだ人生でした。

〈Oさんからの手紙>

 自分が周囲の人たちから十分な理解を得て好感をもたれ何の抵抗もなく受け入れられ認められる――たとえ無意識であっても、このような安易な対人関係を心に思い浮かべるようであれば、それ自体現実を軽視した夢物語と見なされるでしょう。各自の感じかたや考えかたをもっている周囲の人たちへ自分の思いどおりになってくれることを期待できるものだろうか?
 ただすべてをあきらめきり、沈み込みこむのでなく、ベターへの努力を積み重ねて少しずつベストの境地へ近づこうとするのが、人間の生きかたとして大切でしょう。
 自分の神経症をすべて、幼少時の家庭内の不和や、お母さんからの特殊な性質の遺伝に押しつけて、より良い方向へ改めていこうとする「実践的な努力」を自分がおこたって来たために苦しみが離れずにつきまとい、いつまでも解消されないのではないかとの反省が、あなたに欠けているように思います。実践的な努力とは、症状と真正面から取り組んで、押さえつけてたたきつぶそうと焦るのではなく、感情的なこだわりが起きても深追いせず(そのときは心のなかがスッキリせず、不安で不満な思いに支配され、気持ちが落ち着かないでしょうが)。それを未解決のまま放置するとともに、やるべきことはやっていくということです。……以下略。

 十八歳でOさんにめぐり合い五十年近く教えを受けていながら、まったくの落ちこぼれでした。Oさんは今、八十歳を過ぎて神戸で余生を送っていますが、私にとって第二の父親のような存在になりました。一生つき合ってくれるとのことばには、本当に感謝の至りです。Oさんから教えられた次のことに留意して生きられたらと思います。
  1. 誠意をもって応接する。出退社時の挨拶。明確な質疑応答。必要時での手伝い、協力。
  2. 特に好かれようとせず、なるべくなら嫌われないように心掛ける。お世辞は不用、自慢は禁物、相手を傷つける言動を慎む。
  3. 感情の高まりをある程度抑える。相手が受ける不快感を考慮。
  4. 相手の態度や言動を不快に感じても、おだやかに言うべきことは言い、するべきことはする。
  5. 周囲の態度や言動が気になっても、その都度くどい弁解、謝罪をせず、未解決感や不安感を心に残したままで放置する。放置後の不安感になれる。
 今でも、対人も不潔もとらわれる前の状態にはなれません。折にふれて意識するときはあります。生きているかぎり、これからも波風はあるでしょう。しかし、以前のように「何とかして」というあがきはなくなりました。
 治ったような気はしませんが、神経質性格と手をつないで生きております。そして趣味の花作りを楽しんでおります。
 長々と書きましたが、私の手記はただ症状の苦しみを列挙しただけで、なんの参考にもならないかもしれません。今は、五十年もの間、こんな私につき合ってくださったOさんに、ご恩返しをしなければと思っています。