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―― ハンブルクへ ――
二階建て列車の二階のテーブル席を指定席で予約。悠々とドイツの森、大地を走る列車。全員でハンブルクへ。この日は肌寒く、5月中旬のドイツで最高気温15℃。ドイツの天気は変わりやすい。朝寒くて、お昼は、暑い程、夜は又又寒いという日がよくある。ドイツの人は、それに対応できるように、いつも準備している。自転車の荷台は服をはさめるようになっている。 ブレーメンからハンブルクまでは、列車で約1時間半。ハンブルクには、クリストフの弟と恋人のユリアが住んでいる。ハンブルク駅で二人と合流。夫とマテアス。ユリアは初対面。マテアスが夫に日本語で「ワタシは、クリストフのオトウトで、マテアスデス」挨拶していた。一生懸命覚えたのだろう。 |
ハンブルクはドイツ第二の都市。ハンブルクはヨーロッパでも1、2の荷揚げ量を誇る港町とか。ドイツを縦断するエルベ川が北海に流れ込む手前で入江のように幅広い大河になって、河川港の港町になっている。聖ミヒャエル教会の塔に登った。ハンブルクの港町が一望できる。眼下に荷揚用の大きなクレーンが何十台も並んでいる。
聖ミヒャエル教会は春のある日ドイツ中からバイク族のおじさん達が集ってミサをするので有名な教会だとか。その時は大型バイクの見本市のようになるとか。 |
1917年にできたエルベ川の下のトンネルに行った。車・自動車はそれぞれエレベーターで下に降り、川底のトンネルを対岸まで走る。そして又対岸でエレベーターに乗り、上に昇って、対岸の街に行く。人、自転車を乗せるエレベーターは2台。車を乗せるエレベーターは4台。車線は上下1車線ずつ。日曜日だったので車専用のエレベーターは休止していた。 |
ハンブルクの市庁舎は正面に112mの尖塔が建っている。1886〜1897にネオルネッサンス様式で建てられたとか。部屋数は647室もあるとか。観光名所の一つになっている美しい建物である |
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高い高い一輪車に乗り、ヨーロッパ各国の言葉で見物人を笑わせていた。私達もひとときそれを楽しんだ。芸が終わって、子ども達が芸人さんの帽子の中に小銭を持って行って入れる。孫も3ユーロ帽子に入れて、「ありがとう楽しかったわ」と日本語でいうと、芸人さんは、キョトンとしていた。 市庁舎の向い側のビルに、日本のハンブルク総領事館があった。日曜日だったのでどこも閉まっていたがミーハーおばさんの私は領事館の標示の写真を撮ってきた。その日は最高気温15℃だったのに、ノースリーブやランニングの若い人がいるのには驚いた。北ヨーロッパの人は、少しでも太陽の光を体中に取り入れたいよう。
野外博物館へ連れて行ってくれた。私の身近でいえば高松の屋島の四国村のようなところ。北ドイツの古い民家を移築して古い生活用品・道具などを展示してある。規模は大きく広大な敷地に数多くの民家が移築されていた。家は茅ぶき。百姓は大百姓から農地を借りて、大百姓の建てた家の一角を借りて働いていた。 |
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ある家には、四家族が住み、寝室がそれぞれあり、牛馬も何頭かは一緒の家で生活していた。ある家には、四家族が住み、寝室がそれぞれあり、牛馬も何頭かは一緒の家で生活していた。台所は共用。土間で火をたき、自在鉤につるした鍋で煮物を作っていたよう。料理は基本的には一皿で大き目の皿に料理をのせる。 |
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借家人の百姓は白い皿。大百姓の皿は絵付がしてあった。ドイツは日本の北海道と同じ緯度で寒い国。大百姓の家には暖炉がある。寝室はどの家も観音開きの押入れのような中にある。ダブルベッドであっても足を縮めて寝るから小さな小さな押入れのように思えた。寒い国だから寝る時は戸を閉めて眠る。 |
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ドイツは風が一定方向に吹くことが多いようで、昔から風車が多くあったよう。いろいろな形の風車が多く展示してあった。麦から粉を作ったりに利用していたよう。 |
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国策で作ったという、トラクターが展示してあった。オオバーかもしれないが汽車一両ほどの大きさだった。1928年制作で1960年代まで使っていたという。蒸気式トラクターで1時間に160kgの石炭。一日、水1100g使っていたという。私のメモが誤まっていなければ。 馬車は農作業用のものと、人を乗せるのがあった。昔観た、アメリカ映画の西部劇に出てくるシーンと同じものに思われた。 (記:エフコ) |
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