働くことはかなしい、けれど
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朝日新聞 (玄田有史) |
「これから仕事をするなかで、あなたたちはかならずカベにぶつかる。そのカベは、絶対に乗り越えられない。
いままでの自分にとっての常識でなんとかしようとしても、社会ではまったく通用しない」
何年か前、NHKのドキュメンタリー番組をみていたとき、吉本興業の東京本部長でフジテレピのプロデューサーだった横澤彪さんが、新入社員を前にそんな話をされていた。
働くことには、うれしいこと、たのしいことが、あるにはある。だが、大部分はそうではない。むしろ、つらさやかなしさに満ちているというのが正直なところだ。努力が認められないかなしさ、むやみに周囲にふり回されるかなしさ。それにもまして本当にかなしいのは、自分白身の無力さをつくづく思い知らされることだ。
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仕事のなかでは、自分には能力が低いのだという圧倒的な現実に直面する。仕事がうまくいかないのは、場合によってはまわりのせいでもあるが、結局はほとんどの場合、自分の実力がないからだという否定しようのない事実をつきつけられる。 働かなければ、そんな自分の無能を感じなくてすむ。働くなんて、バカらしい。そこまでして働く必要なんてどこにあるのかとさえ、思えてくる。
しかし、働いて自分に力のない不幸を感じたことのない人こそ、本当は不幸なのだ。番組のなかで横澤さんは、こんなことも話されていた。「カベにぶつかったときには、無理に乗り越えようとするのではなく、その前でウロウロしていること。そうすれば、ぽっかり穴がみつかったり、カベが突然崩れたり、ヘリコプターが飛んできて誰かがロープを降ろしてくれたりする」
働けば、かならず大きなカベが立ちふさがる。ところが、自分の力だけでは乗り越えられないカベを前に、偶然としか思えないチカラが味方をしてくれる。そんなときが、たしかにある。
サッカーでいえば、目の前にとんでもなくすばらしいパスが出され、ゴール・キーバーと一対一となるような決定的な場面に、日常の仕事のなかでも、突然出くわしたりする。
「決めるしかない」
ところがかなしいことに、そんなすごいパスを受けても多くはゴールをハズしてしまうのだ。あまりのタイミングの良いパスに体がすくみ、絶好のパスを見逃してしまうこともある。自分の力のなさが、心の底からイヤになる。一方でごくたまにだが、パスに体が反応し、ゴールの決まってしまう瞬間がある。そんなときは、「運がよかった」と素直に思えるし、一歩ふみ出すことのできた自分にささやかな誇りも感じられる。今度は、自分が誰かにパスをつないでみたいと思う。
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自分のカの限界を知る人は、自分以外のチカラによって成し遂げられる瞬間が、働くなかにあることを知っている。ほとんど偶然としか言いようがないチャンスのおかげで、自分の能力を超えて何かが出来てしまった感覚。自分にとって、あまりにタイミングのいい偶然。それによって突然、目の前が開けてしまう、そんな感覚が仕事のなかにはある。
大きく立ちふさがるカベだったり、信じられないほどいいパスだったり、仕事のなかでは、自分のこれまで持っていた常識や能力を超えた存在に出会うだろう。それは、自分にとって違和感だらけの「異物」との遭遇である。
違和感を前にして、逃げ出すことはたやすい。「自分には合わなかったのだ」と、言いわけすることもできる。しかし、完全にマッチする仕事などあるわけがない。仕事はすべて、多かれ少なかれ、ミスマッチだ。その仕事が自分に適した仕事だったかどうかは人生の最後の瞬間になって、はじめてわかる。
大事なのは、自分にとっての異物を、一度、勇気をもって引き受けてみることである。それははっきりいって「シンドイ」。だが、「運」という追い風は、異物と正面から向かい合う人だけに吹いてくる。
異物を自分のなかに引き受けながら、自分にどんなケミストリー(化学反応)が起こるかを、辛抱強く待ち続けてみる。しばらくすると、自分だけではみえなかった、本当の自分の構成要素が、おばろげながらみえてくる。
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大人は若者に「夢を持て」、「やりたいことをみつけなさい」という。しかし、夢ややりたいことがカンタンにみつかれは、苦労はしない。日々の仕事のなかで痛感する自分の限界や、それを乗り越えさせてくれた自分以外の何かに触れることによってだけ、本当の自分の姿、本当に自分がやりたいことは、浮かびあがってくる。
かなしさに満ちた「働く」ということに、人がこだわり続けるのは、なぜなのだろうか。その答えは、一つではないだろう。ただ、数ある答えのなかで最も大切なのは、働くこと自体が、永遠の自分さがしだということなのである。