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〜仮説:変わらないのは苦しい。変わるのも苦しい〜 K
確かに他人との関係で、心は問題を抱えるようになったのですが。
これまでは、自分の心の中で、
(悪くない自分)と(問題を起こしている自分)とを分離して、
問題を起こして、どうしようもないのは、「自分のせいじゃないよ。」
ってことにして、苦しいのから逃れようとしました。
日常のすべての時間を、他に目を向けて、やりすごそうとしました。
「今の自分は、自分以外の何かのせい」にしてしのぎ続けましたが、
あい変わらずの「問題のある自分」に苦しめられ続けました。
すこし心が「問題を起こす自分」に向き合えるようになり、
「自分のもの」としてひきうけて生きられるようになると、
「問題のないかたち」に自分をはめこんで生きようとする気持ちが起きます。
そうやって、慣れてゆけば、自分の中の「問題を起こす自分」が、
「問題を起こさない自分」に変わってゆくのを期待しているからなのかもしれません。
ただ、「問題を起こす自分」の癖は問題を起こし続けるので、
かえられるものを見きわめて、それを
「問題を起こさない自分」にしてゆかないと、問題を起こし続けます。
変わるものが何なのかは、その人が自分で自分の中にさがしだすしかありません。
そうやって負荷をかけて生きるのはなかなか苦しいから、
それまでの自分が、引き戻そうと、悲鳴をあげて抵抗します。
重たくてなかなか動かない、重たい扉を開けて、次の部屋に入れば、
自ずと安定はおとずれるのだろうけれども、
(変える)、(考えを変える)、(自分を変える)苦しみは、
「それまでの自分をなくしてしまうために殺す」より、たぶん苦しい。
だから、死んだほうがまし、楽に感じられます。
友達がそういう状態にあるときは、ただ祈っているしかありません。
友達が、お金で困っていても、お金をあげるのが、その人を救うことだとは限りません。
降りかかる災いも、
みえない力が、長い間かわらなかった自分を、かえようとして、
ひきあげようとして、起こしてくれている可能性があります。
そのときは必死(!)だし、それまで生きてきた世界が
もう、崩壊してしまったくらいの、心引き裂かれる思いに捕らわれます。
災いが終わったあと、
「これは、自分を鍛えるために、起こされたのだろうか?」
と、問うてみてください。
変わるとき、それまでの自分を殺してしまうくらいの
苦しみを乗り越えなくてはなりません。
「死にたい。」と言うときは、恵みの時かもしれません。
「それまでの自分」を殺したい(変わりたい)という叫びかもしれませんから。
あなたの存在を消す必要はありません。
誰かから愛されている(いた)あなたを。
クズモから友達と思われているあなたを。
「問題のある自分」だけを、無くせばいい。
苦しむのが、人生の目的でなく、喜びを味わうのが人生だと思うから。
あなたの存在は、生きるべくして、生き続けるだろうから。