[ index ] |
|
宮崎県精袖保健福祉センター所長 細見 潤
●Aさんの場合
下のマンガは、最近一年ほど私が月一回の割りで面接をしているAさんが描いたものです。
彼は現在二十三歳になりますが、高校生の時から人中に入ることに恐怖を感じるようになりました。特にきっかけというものはありません。自分と同世代の若い女性が極めて苦手で、かつ比較的少人数での集まりや作業への参加にも耐え難い苦痛を感じています。
このような状況では彼には必ずといってよいほど、動悸や発汗、身体の震えといった不安反応が出現します。結果的には人との接触をできるだけ避けようとして、彼は自宅から外出することを好みません。もちろんこれまで就職したこともありません。
一方、マンガの中に「俺を見て笑った…という表現がありますが、彼はこのことを決して関係妄想的に確信している訳ではなく、自分の考え過ぎであることを十分承知しています。
私との面接が始まるまでに、この問題を解決しようと多くの「神経症」に関する本を読み漁ったり、いくつかの精神科医療機関を受診し薬物療法等の治療を受けるなど、彼なりの懸命の努力をしてきました。マンガにある「恐怖突入」という言葉は、その時に憶えたものだそうです。ただ残念なことに彼のこの問題は未だに解決しないまま
現在に至っています。
●診断の基準
「社会恐怖」という診断名が私たち精神科医の前に初めて登場したのは二十年ほど前のことです。不確かな病因や学説を排除してひたすら現象を記述的にとらえた「精神障害の診断と統計のための手引き第三版(DSM−V)が一九八〇年にアメリカ精神医学会から刊行され、その中に「空間恐怖」や「単一恐怖」とともに「恐怖障害」として位置付けられました。
DSM−Vでは、それまで伝統的に広く用いられていた「神経症」のカテゴリーを除いたために、多くの日本の精神科医は少なからず戸惑いを感じました。実は私もその一人なのですが、その改訂放であるDSM-Wが刊行された現在では、日本でも比較的若い精神科医を中心に広く用いられるようになりました。
なお、日本でよく聞く「対人恐怖」は「神経症」カテゴリーのひとつで、社会恐怖の定義とほぼ重なりますが、自己臭恐怖や自己視線恐怖などで関係妄想的確信を持つ「重症対人恐怖」の場合は、社会恐怖ではなく妄想性障害に分類されます。
DSM-Wの解説書を参考に、「社会恐怖」の診断的特徴をやさしく解説すれば次のようになります。
A.恥ずかしい思いをするかもしれない場面や、恥ずかしい結果に終わるかもしれない行動をとることに対して、顕著で持続的な恐怖を感じるのが基本的な特徴である。
B.恐怖を感じるような場面にさらされることによって、ほとんど必ず不安反応が誘発され、この反応は状況依存性または状況誘発性のパニック発作の形をとることがある。
C.患者は、その恐怖が過剰であること、または不合理であることを認識している。
D.ほとんどの場合、患者はそうした場面や行動を避ける(回避)が、時には恐怖を感じながら耐え忍ぶ。
E.この診断が適切なのは、回避、恐怖、またはそうした場面にぶつかることに対する予期不安のために、その人の毎日の生活、職業上の機能、または社会生活が著しく障害されている場合、または恐怖症があるためにその人が著しい苦痛を感じている場合のみである。
F.一八歳未満の人の場合には、社会恐怖と診断されるまでに、少なくとも六カ月間症状が持続していなくてはならない。
G.その恐怖または回避は、薬物または一般身体疾患による直接的な生理学的作用からきているものではなく、他の精神疾患ではうまく説明されない。
H.他の精神疾患または一般身体疾患が存在している場合でも、その疾患の社会的影響に対する心配に限らず、恐怖や回避が生じている。
実際に臨床をあまり経験していない読者の方には難解なところがあるかもしれませんが、この診断基準に照らし合わせていくと冒頭で述べたAさんは典型的な「社会恐怖」であり、彼の描いた短いストーリーは 「社会恐怖」をイメージするには大変良くできた作品であると思います。
●治療のポイント
「社会恐怖」の治療については、これまでの生活歴、家族背景、経験や体験を通して感じてきたこと、そしてその結果としての価値観や生き方など、その人なりの有り様をまずは理解し、共感するところから始まります。自ら問題を解決しようと試行錯誤を繰り返したことについてもしっかりと受けとめる必要があります。
そして「低い自己評価」や「他人からの批判や評価、拒絶に対する過敏性」が取り組むべき課題であることを提示します。もっともこの課題は「社会恐怖」を示す患者さんに限ったことではなく、一見普通に生活している人にとっても大きな課題となっていることも合わせて伝えます。
そして不安反応に焦点を当てるのではなく、本当に自分がしたいこと、やるべきことを実行していくことに焦点を当て、それがなんとか実行できれば不安反応がいかなるものであれ百点満点の評価が下せるような態度形成を回復の具体的な目標とします。
精袖安定剤などの薬物については前述した態度形成を優先して、一時的にせよ有効であれば利用することを勧めます。
このようにして、現実参加、対人交流の経験を絶やさないように努めることは極めて重要です。同時に「低い自己評価」を高めるために、その人に応じた実行可能なプログラムを工夫していくことも重要です。
幸いにしてAさんはイラストが得意でした。私は半年ほど前に、Aさんに自分の思いを絵に措いてみることを提案しました。そして出来上がったのがこの作品です。また、精神保健福祉センターが整備する啓発パネル作成にもイラストレーターとしてAさんには現在協力していただいています。
これらの活動を通して彼が「自己の再評価」を行ない、そして彼なりの生き方をそのうちに見つけることができればと考えています。このマンガの掲載も、回復のひとつのステップになればと願っています。
(参考文献)高橋三郎・大野裕・染矢俊幸訳 DSM−W精神疾患の診断・統計マニュアル 医学書院一九九六
|