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体験記 (87)

 60歳で44年間勤めて定年になり、その後3年間パートで勤め計47年間 三ツ星で働いたが、その間一貫して神経症(対人恐怖、不潔恐怖)で悩んだ人生であった。
 それでも私には人生の大半を過ごした会社である。私にとっては、良い悪いは別として思い出の一杯つまった故郷である。今は会社の前を通ると親元へ帰ったような気持ちになる。定年後10年たった今でも、なつかしく思い出されてくる。大正10年10月の創立だったから、それを記念して秋にはいろんな行事が行われた。
 歌手を呼んでコンサートを開いたり、バス旅行をしたり国鉄(当時)の汽車を一本借り切って全社員で一泊二日の旅行に連れて行ってくれたり、また本社が神戸なので四国、名古屋、神戸の全社員が宝塚を借り切って集まり記念式典が行われ、その後、歌劇を鑑賞した。この時、こんな歌劇なら両親に見せてやりたいなと思ったが実現せずに終わってしまった。神経症の苦しみから逃げることばかり考えていたのでその後は歌劇のことは頭から離れてしまった。
 入社15年目から5年毎に4回永年勤続の表彰があった。毎回表彰状と共に、15年は一律に腕時計を、20年25年は3品の中から好きなのを選ばしてくれた。20年は置時計を、25年はカメラをもらった。最後の30年は出張扱いで神戸の本社へ招待してくれ、表彰式の後に慰労会を催してくれて役員達が酒を注いでまわってきた。帰りには(向こう一年の内に何時でも何処でもいいから夫婦で旅行に行きなさい)と行って10万円の旅行券をくれた。それを使って旅行に行ったのだが、会社を休まないといけないのでその旨会社へ言うと最後のイベントだからと言って3日間の特別休暇をくれたのである。
 神経症の苦しみで朝目がさめて会社へ行くようになるとゆううつになって落ち込む生活であり、そして会社で怒られたり文句や嫌みを言われたりして仲間と折り合いが悪くなると、それにとらわれて いつ迄もくよくよと悩んできた人生であったが、今思うに、神経症の苦しみがなかったら、いい会社でいい人生を送れたのではないかと思うのである。
 当時の会社の仲間達から(山下は些細なことをすぐ気にしてくよくよと悩む気の小さい男)という思いが定着してしまっていたが、これも事実である以上やむを得ない。
 27歳で初めて海野医院で診察を受けて先生から「悲観的にばかり考えるんだね」と言われたが、この考え方は今でも残っており治ることはなかった。
 会社で上司に呼ばれると必ず(何を失敗したのだろうか?何を怒られるのだろうか?)とそう考えて緊張するのだったが行ってみると何でもなかったりしてホッとしたりしていた。
 私からの声かけに対しても返事のない時、無愛想な態度の時等はすべて何怒っているのだろうか?何か気に障るようなことしたのだろうか? と考えていつもきなきなと悩むのであった。まして私に不快なことを言われたりされたりした時には、やっぱり何か怒っている。その為に嫌われたからである、と思い、その人に会わなければいけない時になるとゆううつに落ち込んで可能であれば口実を作って逃げてしまい会うのを避ける様な生活であった。
 そんな風であったから親しい友人などできるはずがなかった。その上、私の言動を誤解して悪口を言われたり相手が自分の非を正当化した場合それを許さず、いつまでも根に持って憎んでいる所があるのは否めない。神経質性格の特徴に執着性があり(粘り強く物事を成し遂げる)という長所があると教えるが裏を返すと執念深いという欠点にもなる。
 この背景には自分に関係する人々すべての人達からいい評価を受け親しまれないといけないという欲望があるんですよと教わったがその通りであると思う。
 この欲望が強すぎると相手の何気ない言動も自分への嫌悪の表現のように思えて人と対立的になるとのことだった。
 正に私は人生の大半をこの様に生きてきたのである。
 若い時はいくら教えられても これが分からなく悶々と苦しんでいたのであった。

執筆 :(T.Y)