体験記 (84)
母を施設へ入れたものの仕事帰りに見に行っても、いつも一人でポツンとしていた。私同様他人と和やかにできるタイプでないので、どうしても人から距離を置かれるみたいだった。その後仕事が終わって施設へ行ってみると部屋が変わっていた。聞くと担当の人が怒って「山下さんの世話はできません」と言うので、違う人の担当になったとのことだった。これを聞いた時(あゝやっぱり駄目か)と思った。
時々外へ遊びに連れ出していたが、「番屋へ帰りたい、番屋で一人で暮らす、あんな所へ入りとうない」と泣いてたのまれたが、パーキンソン病で体が自由にならず認知症もあり、さりとて家内と一緒も無理なのでどうする事もできなかった。何時間か外へ車で連れて遊んで夕方施設へ帰ってくると、「あゝ早もどってきた」とつぶやく母のその時の寂しい気持ちはよく分かるが、どうしようもなかった。
神経質者は自分中心で自分の思い通りにならないと気がすまない所は、私も母も全く同じ傾向であり、その為に人間関係がギクシャクするのだが、母は理解できてなく、当時の私もどうして人と折り合いが悪くなるのか、私のどこがいけないのか分からなかった。今、思うに自分中心で我がままで、プライドが高く、執念深く、自分の嫌なことを言われ、されたりすると何時までも根に持って、その人を許さず、それでいて人が親しんでくれない、仲良くできないと、悩んでいたように思うのである。人の好き嫌いが激しく、自分の嫌な人間を寄せ付けないのであった(嫌な言動をされた人)
日が経って、気持ちが変わっても素直に心を開くことができずに、態度を変えないものだから(自分から働きかけても相手の反応が、よくないと悩むから)何時までも対立したままになっていた。ものすごく意地っ張りなのである。森田で神経質はいい性格ですよと教えるが、両面観でプラス面が表面に出れば いい性格になるが、私と母はマイナス面が表に出すぎていたので、付き合いにくい人として敬遠されていたと思う。
こういう諸々の欠点は、今70歳になってやっと分かってきたように思うが、当時は、自分は正しい、相手が私を嫌悪しているんだと思ってその人を憎んでいた。そうなった背景には母の遺伝を100%受け継いでいるのと、複雑な家庭であった為、敵味方に分かれている様な家庭の中で3日にあげずのケンカケンカの生活の中で、他人は自分を嫌って排斥するんだという妄想状態で少年時代を送った為ではないかと思う。
母はよく「私と恒雄と康子(妹)を追い出しにかかっている」ということを折に触れて、叫んでいるのを何回となく聞いて育っているので、私としては洗脳されたように私の頭の中に焼き付いているのである。幼少時の環境が人の人格形成にいかに大きく関与するかを痛感するのだが、少年時代に戻って人生をやり直しすることはできない。この性格のまま生きていく以外に術はないのである。そんなある日、会社の休みの日に喫茶店でモーニングを食べながら(食べ終わったら母の所へ行こうか)と思っていると携帯が鳴る。施設から母が息をしてないので病院へ運ぶ、すぐさぬき市民病院へ行ってほしいと言う。
慌てて病院へ走り、救急車で運ばれてきた母を見ると母の顔はもう死人の顔色であった。人工呼吸をしてくれたが、母が帰ることはなかった。
享年89歳であった。死因は部屋で一人で食事をしていて窒息したとのことだった。その日に限って一人で食べると言うので部屋で食べていたらしい。私はひねくれているので、嫌われている母は、ほっとかれたのではないか? そう考えたりするのだが、これは私の勘ぐりかも知れない。施設の人に「なぜ見守ってくれなかったのか」抗議したが、死んだ母は帰らない。
89歳は年としては不足はないが、病気ならいざ知らず、こういう死に方をさせた悔いは消えない。
想えば30数年前にケンカばかりの家から逃げるように神奈川へ勤務して行き、台所で一人で死んでいたという父、そしてまた嫌がる施設へ入れて、食事を喉に詰まらせて、これまた一人で死んだ母を思うに、跡取りとしての責任を全く果たすことなく、親不孝の限りを尽くした私は、ろくな死に方をしないであろうと思うのである。
執筆 :(T.Y)