体験記 (82)
母が一人暮らしをして2〜3年経ったころ、母が「近所の誰それさんが農薬をかけて花を枯らす。家の中の物がなくなる。あれ盗られた、これ盗られた」と言って、警察を呼ぶようになった。堀江さんという人が毎回やってきていろいろ調べてくれたが分からない。堀江さんが「近所の人に公表するように、そうしたら犯人も盗らんようになるだろう」と言ったらしく母は皆に言い触らすようになった。
私も母の言葉を真に受けてその男に腹が立った(母が名指しで言うものだから)会社から帰りに母の様子を見ようと番屋へ行くと玄関の鍵が開かない。昨日は開いたのに今日は開かない。入れないから電話をすると「犯人に合鍵取られたから鍵を変えた」と言う。こういう事が毎日続くが盗られたような形跡がないので母を怒鳴りつけた。
「お前は盗人の肩を持つんか?」と怒り出す。そんな生活の時、警察から電話があり、「山下さんお婆ちゃんの事で話がありますから警察まで来てくれますか?」と言うので、行って見ると堀江さんが私を別室へ連れて行き「山下さん私もお婆ちゃん子だったんでお婆ちゃんは好きなんですよ」という話から入って、盗られる農薬で花を枯らされるという話をしてから、堀江さんが「山下さん 鳥はなんともないんですか?」と言ってきた。鳥は禽舎を作っていろんな鳥を放し飼いにしていたが元気に飛び回っている。小鳥は薬品には敏感ですぐ反応するが何ともない。私はそこまで考えなかったが堀江さんは気がついたらしい。その後「山下さんお婆ちゃんボケよるような事ないですか?」と言う。
私はこの事も全く考えてなく母を叱るばかりしていた。堀江さんから「山下さん一度お婆ちゃんを病院へ連れて行ってくれますか?」と言われ、初めて病気を考え出した。
堀江さんが「お婆ちゃんボケよらんですか?」と言われた事を母に言うと、あれだけ堀江さんをたよっていた母が、堀江さんを寄せ付けんようになった。こんなこと言ってはいけないのであったのだ。嫌がる母をいろいろにして病院へ連れて行き、検査をしてもらった所、やはり認知症の初期ということだった。
「認知症は物を盗られるということから始まるんです」と言われた。盗られるという事以外は全く変わった所がなくいつもの母と同じだったので、認知症という事は全く考えてなかった。パーキンソン病も患っており、もう一人で暮らすのは限界だと考え、施設へ入れる事を考えた。本来なら私が親を見なければいけないのだが、他人とは対立的になる傾向の母と家内との同居は不可能であるのが分かったので、親不孝になるのではあるが、施設入りを決めた。
思うに私は母にはしっかり甘やかされて育ってしまった。過保護も度が過ぎていた。どんな事をしても叱られることはなくすべて許してくれ、私が神経症の苦しみを訴えると、私の思う通りに動いてくれた。従って私も母に甘えて困った事があるとすぐ母に泣きついてしまう有り様で、精神的に一人前の大人になれなかったと思う。困ったこと困難なこと嫌なこと等はすぐ人に助けを求める癖がついて、自分で解決しようとはしなかった。
会社でも同様であり、人間関係のトラブルで特に感情的になると、もう人に嫌われた、と考えて上司に泣きつくような弱い心になってしまった。上司も私の性格を知っている為か、よく相談に乗ってくれ、解決の為の努力をしてくれた。その為にますます人に頼る様になり自分で努力して処理して乗り越える様なことはしなかった。結果として大人になり切らずに年を取ってしまったと思っている。
艱難汝を玉にすという言葉があるが、全く反対の態度であった。これは親の庇護を必要とする子供の態度ですよと教わったが、全くその通りであった。
そんな生活であったから、自分の思い通りにならなかったら、我慢ができず、我が儘一杯に育ってきたと、今になって思うのである。還暦を迎えても、母は妹よりも私が可愛いと言ったらしい。
執筆 :(T.Y)