体験記 (78)
会社では相変わらず不潔を気にして洗うばかりの上に、人からちょっときつい言い方をされたり、こちらから声かけても返事もしてくれない時は、何怒ったのだろう、何か気に障るようなことしたのだろうか? と気を回すのである。
同僚に声かけて返事がない。即頭に浮かぶのは、何怒ったのだろう、腹の立つようなことした覚えはないのだが、そう思い「何怒っとんや」と聞いた所「怒っとらん、物言わなんだだけや。物言わなんだら怒っとんか」と言われた。自分が思うことと反対の結果になると、ネガティブに考えるクセがついてしまっているのだ。今でもこの傾向は残っている。不潔恐怖も同様で、すべてにおいて悪い方へばかり考えるクセがついているので、これは今はどうすることもできない。
洗いたい気持ちは条件反射的におこるので、そういう感情はクセになっているので、どうしようもない。洗いたい感情はどうすることもできないが、行動は意志の力でどの様にでもなる。洗いたいから、その心のままに洗ってしまう事もできるが、洗いたい気持ちはそのままで、洗わずにがまんしていく事もできる。森田では後者の態度を取れと教えられた。不潔恐怖は本当に汚物が付いたのではなく、付いたような気がするだけなのである。
つまり想像から創造した産物であるから、洗う必要はないのである。(本当に汚れたのであれば洗わないといけない。これは健康な人でも洗うのが普通であり、不潔恐怖とは言わない)とらわれ迷いの中にいる私にはその区別がつかなくなっていた。今でもこの感情は残っている。対人恐怖も同様の心理で起こる。とらわれて迷いの中にいる人は相手の何気ない言動がすべて自分をバカにしている。私の存在を不快に思っている。周囲の人々は他の人には好意を持って接していくが、私には嫌悪の情を持って態度言葉に表わしてくる。そういう風に考えて、人中に入って行くのが恐いのであった。要は絶対に汚れてはならない。いついかなる場合でも清潔でなければならない。自分に関係する人々には、いつも好感を持たれ絶対に嫌われたり、誤解されて悪く評価されてはならないと思っているのである。この考えを極端に推し進めると、自分が神様のように思われねばならないという、うぬぼれた傲慢な態度ですよと言われたが、当時の私は、唯争いのない平和で和やかな人間関係を求めているだけなのに神様のように見られたいとは思っていないのに、と考えて森田の極端な表現が分からなかった。
森田では恐怖突入という事を教える。私の場合で言えば、洗いたくても洗わない。人と感情的トラブルがあって、その人と接するのが恐くても、必要であれば逃げずに目的本位に行動する、と言われたが、これがどうしてもできないのである。脅迫観念とは、これ程までにしつこいのである。人それぞれに考え方好みが違うので、すべての人から好感を持たれたいと思う方が無理であるのに、この年になるまでそれを望んでいた。それでいて自分は相手の非を許すことができないのである。そして人から敬遠されると悩んでいる。今もこの傾向は残っている。人が私に文句を言い、私と対立的になるのが許せずにその人間を寄せ付けなく、それでいて人と仲良くできないと悩むのである。特に私の気持ちを誤解された場合にはそれが顕著に現れてくるのをどうすることもできなかった。感情的なトラブルには非常に弱かった。
会社では仕事が終われば悩みは残ってもその人から離れるので少しは息抜きもできるが、もし私が女で姑のいる所へ嫁いで折り合いが悪くなれば、家族として暮らすだけに精神的にダウンしたんじゃないかと思う
執筆 :(T.Y)