体験記 (75)

　神奈川工場から四国へ帰る最後の日に、挨拶まわりの為、工場の中を歩いていると課長に呼び止められ不潔恐怖の事を聞かれて課長は「清潔でいいじゃないか」（洗うことに対して）と言われた。周囲の人はこんな私の症状を特別（おかしい気が狂った）という風には見ないのかも知れない。工場長は不潔恐怖という神経症は初めて耳にして珍しかったのだろう。皆に話をしていて職制は全員が知っていた。
　私は四国へ帰れば、不潔恐怖も治ると思って安心していたが、考えが甘かった。
　四国に帰って猛烈な苦しみを味わうのだが、当時はそんな事は夢にも思わず喜んで帰ってきたのである。
　横須賀の病院で紹介状を書いてもらって海野先生の所へ行きたいと思っていた。
　私が帰る事は神奈川工場から四国工場へ連絡が入っていて四国の人はすでに知っていた。
　四国の工場へ入っていくと、どこに触れても何ともない。精神的にすごく楽であった。
　しかしこれは環境が変わった為の一時的な現象であったが、そんな事には気がつかず楽になれたと喜んでいた。会社で海野先生の所へ行きたい旨の話をすると会社の看護婦さんから「海野先生はダメです。あそこは行かないでほしい。行くのなら三光病院に行って下さい」と言われ、止むを得ず三光病院へ行くことになった。会社でなった事なので会社の看護婦さんと課長もついてきてくれた。
　市川先生の診察を受けて２ケ月の入院となった。入院は嫌だったが、そういう診断を下されたら断ることもできず、（会社の指示であったので）入院することになった。
　四国での出社は退院後になる。こういう病院なので市川先生が世間の目も考えてくれて毎週末は必ず外泊ということにしてくれた。
　２ヶ月の間、土日の休みに姿が見えないと近所の目もあるので、その様に配慮してくれたのだが、そんな気遣いも役に立たなかった。番屋の近所に三光病院へ勤めている看護婦がいて、私の事はすぐ近所に知れてしまった。その事を市川先生に言うと「そんな事は絶対にない。そんな事を言うてはいかん事になっとる」と言って信用してくれなかった。先生は看護婦をかばったかあるいは現実を見ていないのであろう。
　そういう規則は知ってても、言うのが人間である。規則はあっても守らなければ無いに等しい。他人の口とはそんなものである。だから他人は恐いのである。（人の口に戸はたてられん。人は右に転んでも左に転んでも言うもんだ）と言われたが、その通りである。
　入院はしたものの薬を飲まされるだけで週一回５分ぐらいの診察のみなので「もう少し話しさせてほしい」とたのんだが「いやこれで十分だ」と言って変えてくれなかった。
　毎日何もする事がないので食事以外は寝るしかなかった。
　その上、アル中の人がおり、病院から仕事に行き、飲んで帰ってきて、部屋で嘔吐してふとんを汚すのを見ては、不潔恐怖の症状が頭をもたげてきた。トイレへ行くのも神経を使うようになり、神奈川工場と同じように物に触れることができなくなり、触れたら洗ってしまうのである。
　先生に退院を申し出ても許してくれなかった。会社の看護婦から「２ヶ月の診断が出てるから２ヶ月は絶対に帰してくれない」と言われ薬を飲んで寝るだけ、週一回売店でおやつを買い、同室の人に勧められて自転車の虫ゴムを入れる内職をしていた。
　内職すれば金くれると言われたが、くれたのかくれないのか分からずじまいであった。あるいはおやつ代に消えたのかも知れない。症状がひどくなるので入院を後悔したが、２ヶ月が過ぎるのを待つのみであった。
　待望の２ヶ月がきて、先生から「良くなりました」と言われ退院になった。私は（どこが良くなったのだ。むしろ悪くなっているのに）と思ったが、言えば退院できなくなるので何も言わずに喜んで病院を後にした。
　神経症は神経質な性格の人の人格であって病気ではないから治るはずはなく、ただ症状に対する受け取り方を正す以外にないのだが、当時はどこまでも症状をなくす事しか考えていなかった。

執筆 :（T.Y）