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体験記 (42-44)

 

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 そういう生活の中で、20代も半ばになって見合いの話を持ってきてくれ、私も一生独身でいるわけにいしかないだろうから、結婚を考えるようになった。
 見合いのことなので、どうしても聞き合わせに来るのだが、その時点で断られた。兄の死が出てくるのであった。それも精神病院で自殺したと言われたら、だれでも断られて当たり前である。ここでも他人の口は恐ろしいなと、つくづく思ったのである。当時は今と違って世話好きな人もいたので、それでも次々と話を持ってきてくれた。
 聞き合わせの前に見合いになった場合もある。その時は、しばらく付き合ってみようということで、二人で徳島の方へドライブしたのだが、徳島へ向かって、私は車を運転して走るだけで一言も喋らないのである。そんな風だから相手の女性としては「こんなに物言わん人では自信がない」と言われたと仲人から教えられた。初対面の人と一言も喋らずに1時間も2時間も黙ったまま、車を走らせるだけだから断られて当然である。元々無口な性格の上に、初対面の人だと何を話していいか全く分からない。
 要は、子供の時から人との付き合いをしていないから人との接し方を知らなかったのである。まして異性となると子供の時にゴムとびやおじゃみ等の遊びを、自分をいじめたりしない子と遊んでいただけで、大人の異性とは仕事を離れて接することはなかった。従ってこういう場面になると全く会話ができないのである。
 まして初対面であれば、なおさら、話題がでてこない。
 そんな人間だから断られてあたり前であろう。そういう時に妹が初めてのお産で津田病院に入院したので母と見舞いに行った。そこで同室に同じように娘さんのお産の為に病院へ来ていた夫婦と母が親しくなり、話をしている内に、私の話が出て、その人の知り合いを紹介してくれて見合いをする事になった。
 

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 後日その人が、知人の娘を紹介してくれて見合いをすることになった。こんな私だからどうせまた断られるだろう。そう思いながら見合いだけはしてみた。結果としてこの女性と結婚したのが今の家内である。見合いの後、付き合うことになったが、今に断ってくるだろう、そればかり考えていた。社交的でない私は、どうしても自分から積極的に働きかけるようなことはしなかった。それでも結納まで進んだが、そこまでいっても信用しなかった。(あんな物、倍返しにすればいつでも御破算にできるのだから)そう考えて、その内に断ってくるだろうと思っていたのである。やはり神経質の取り越し苦労というか、物事を悲観的にばかり考える私の性格が出ていたようであった。
 対人恐怖で、人から嫌われる、いじめられる、のけ者にされる、そういうことで悩んでいる私が、他人と一緒に生活することに不安になって会社の岡さんに相談した所、今までは「お前は病気でも何でもない、どうでもいい事を勝手に悩んでいるだけだから医者へ行く必要はない」と言っていたのが、今回は初めて「山下、医者へ行ってみるか?」と言ってきた。
 18歳で神経症と分かり、同じく神経症の体験者の岡さんのアドバイスを受けながら、また森田療法の通信指導を受けても良くならず、他人の自分に対する思惑に悩む人間だから、その人間が結婚して他人と暮らすようになることに対して、このままではいけないと思ったようである。
 三本松に海野医院というのがあり、そこへ連れて行かれて、診察をしてもらうようになった。
 初診の日は、時間外に夜暗くなって診てくれた。なぜか不明だが、神経科という所だから、人の目につかないように配慮してくれたのかも知れないと考える。
 先生に会って、すぐに自分の苦しみを訴えた所、先生は「案外、軽かったのー」といって驚いていた。私の事は事前に岡さんから聞いていて知っていたのは分かっていたが、(軽い)と言われるとは思っていなかった。先生は医者だから、自分では当たり前だと思っていたのだが、もっと重い症状の人は医者にでもすぐに自分の悩みを訴えないのかも知れないと思った。
 

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 診察後先生が薬をくれた。「何の薬ですか?」と聞くと「ノイローゼの薬だ」と言われた。18歳の時、初めて読んだ森田関係の本には神経症は薬では治らないと書いていたので、薬を飲むことには最初から抵抗があった。
 先生は「飲まんとまたイライラするからの」と言われたが、私は飲まなかった。(先生に叱られるかも知れないが、薬に対する先入観があったので)
 先生は、「山下君、人との付き合いをしてないな、話してすぐ分かった。それでは神経症にもなるわ。人との付き合い言うても、番屋の人間皆と付き合うんではないぞ、せいぜい一人か二人と付き合えば充分じゃ。じつはお母さんに病院へ来てもらって何時頃からこういう傾向があったか聞かしてもらった。そして君の子供時代の家庭環境を詳しく教えてもらった。これでは神経症にもなるわ。人間の性格は家庭で作られるんだぞ。君が普通の家庭で普通に育ったら、こんなにはならなかった。かわいそうだが止むを得なかったな。しかし山下君、君を治す前にお母さんを治さんといかんが― 」と言われた。当時は何の知識もないので、そんなこと言われても分からなかったが母が神経質で対人関係において対立的になり易く、私の幼少時は母べったりであり、母には非常に甘やかされ、どんな失敗をしても許してくれ、私の要求することは全部聞いてくれたので自分の思う通りにならないと我慢できないという我が儘な子供だったと今、ふり返って思うのである。そして何かあればすぐに母をたよって、母にすべて助けてもらうマザコン男になっていたのである。先生は「人との付き合いは物のやり取りでできるんやぞ。何か趣味はないんか?」と聞かれたので、「サボテンを作っています」と答えると、先生が、「じゃー、サボテンを持ってこい」というので1鉢持ってきて、待合室へ飾った。病院には、いろんな絵を一杯飾っていた。先生は「この絵は皆、患者さんが持ってきた物だ」と言われた時、こんなもの飾るのと病気の治療と何の関係があるのだろう。そんなことを考えていた。

執筆 :(T.Y)