体験記 (35)
死因は自殺だった。病院の廊下で首をくくったとのことであった。兄は躁鬱病の診断を受けて入院していたが、面会に行く度に「オラはどこも悪くないのにこんな所へ入れられた。帰りたい。帰してくれ」と行く度に訴えられてかわいそうになり、そのことを母に言って「帰してやれんのな」とたのんだりしていたが半面、帰ってほしくない気もあったのである。入院前兄が帰る度に家の中でもめ事がたえなかったからである。これは私たち家族に、この種の病気の知識がなかったことと、どこへ行っても3ヶ月と仕事が続かなかって次々と仕事を変えて金がなくなると帰ってきて、金目的の物を持ち出して質入れして使ってしまうので、その度に家の中でケンカがたえなかった。兄が帰れば必ずケンカになるということが私の頭にインプットされていたからである。
母からみれば、まま子にあたるから、兄に対する感情も多少は違っていたことは否めないと思う(自分では同じように接していたとは言っていたが実子に対する感情と同一にはなれないと思う)その為にケンカが大きくなった要因もあっただろう。兄は「食えんようになったら死ぬんじゃ」とよく口にしていたが、ほんとうに死ぬとは想像もしていなく、何がどうなったのか訳が分からなかった。今、森田を知って兄はうつの時に死んだのだと理解できるようになった。私にくらべて兄は頭がよかった。特に機械、化学には強かった。その為、先生からそういう道に進ませてやれと父に言っていたそうである。
複雑な家庭環境での度重なるケンカに加えて躁うつ病という病気が兄の人生を不幸にしたのではないかと考える。
生前兄は病院で「帰りたい、帰してくれ」と口癖のように、私にたのんでいたが、人間の思いというのは、一念に思えば死んででも叶うものだろうか? あの日はものすごい大雪で、交通機関も止まってしまい、父が病院のある寒川で荼毘にしてもらうと言ったが雪の為に火葬場も機能していなかった。父が霊柩車をたのんだが「この雪では動けん」と言って断られた。「そこをなんとか」と言ってたのみ込んで「こんな時だから仕方がないな。車が行ける所までは行ってあげましょう。それ以上は自分でやってくれますか?」と言って霊柩車だけは出してくれた。家の近くまで帰ったが、それ以上は進めなく降ろされたので、父が荷車を持ってきて、それに兄を乗せて父が舵を取り、私が荷車を引っ張って家まで連れて帰った。「帰りたい、帰してくれ」といい乍ら死んだ兄、そして死んでやっと願いが叶ったのである。あんな死に方をした兄であるが、ほんとうに眠っているようなきれいな死に顔であった。享年26歳である。
執筆 :(T.Y)