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体験記 (33-34)

 毎日会社と寮の往復の生活で、暑い中、8時から夜8:00時まで仕事をして寮へ帰ると、汗だくになった仕事着を洗って寝るだけの生活だった。そんな生活で1ヶ月半がすぎ盆休みに入った。
 長い休みなので会社が帰省させてくれ、応援者は全員帰ってしまったが、私は名古屋に叔父が住んでいたので、せっかくここまで来たのだから帰省はせずに叔父の家へ遊びに行った。
 養老の滝、名古屋城、等々いろいろ遊びに連れて行ってくれて楽しい休みをすごした。長い休みが終わって寮へ帰るようになると、いつもの憂鬱な気持ちになるのであった。
 叔父が車で寮まで送ってくれたが、別れる時は、楽しかった休みが終わって明日からまた人の顔色を見ながら仕事するのかと思うと淋しくなる。口の荒いのは相変わらずだが、後半月したら四国へ帰れると思い乍ら仕事をした。9月に入り、やっと四国へ帰れるようになってホッとした。何人かの応援者と帰ってきたが、帰る時、会社の食堂の黒板に応援者の一人が(長いことこき使ってくれてありがとうございました)と書いていた。この人も不満をかかえて仕事をしていたのだろうが、いい度胸しているな。
 私は、思っていても、こんなことはできない。
 2ヶ月ぶりに帰ってきて、見慣れた風景を見てすごく懐かしくなり胸がワクワクして嬉しかった。(2ヶ月で変わるはずはなく、あたり前の景色だが離れていると、こんなにも懐かしくなるものなんだ)又、元の職場で仕事をするのだが、会社へ行って2ヶ月前に応援の指示を受けた総務課長へ帰ってきた旨の挨拶に行くと、私の顔も見ずに「あゝご苦労さん」と言ってツーと向こうへ行ってしまった。
 応援の指示をする時は「山下君は真面目だから云々・・・・」といろいろ美辞麗句を並べて持ち上げておいて、帰ってきたら木で鼻くくったような態度に嫌な気持ちになったが、直属の上司でないので(むかつくな)ぐらいで終わってしまった。これが直属の上司ならば、何が気に入らんのだろうか? 何を怒っているのだろうとキナキナと悩んだと思う。総務課長は神戸から転勤してきたいわばよそ者だから情も何もなく事務的に処理しているだけか、またはこの人の性格の故かも知れない。同じ様に転勤してきた当時係長であった岡さんは自身が神経症を体験して、苦しんだ故か、私の悩みに理解を示してくれて公私にわたって面倒をみてくれ神経症に対する心の持ち方態度等いろいろ教えてくれた。あれから50年近くなり岡さんも80歳をすぎて神戸で余生を送っているが、今までほんとうによく相談にのってくれた。自身も神経症の体験があるので、私の気持ちが分かるからだけではなく総務課長とは人格の相違もあるのではと思う。
 

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 また元の物流課へ帰って仕事をしだしたのだが、当時は職場の中で麻雀が流行っており、週末には何人かが集まって徹夜で金を賭けて行い、月曜日には負けた人が金を払っていた。私はこのような賭け事は嫌いであった。対人恐怖で人の顔色ばかりみていたので人との交際が苦手な為だけでなく、人一倍負け嫌いなので金を賭けて負けると、くやしくて、くやしくて、夜も眠れなくなる。従ってもろもろの勝負事はやったことがない。
 会社の同僚から「山下が賭事をしたら性格がよう分かるんだがな」と言われたが、前記の理由から絶対にやろうとはしなかった。賭事をしなくても私の負け嫌いと神経質は分かっているはずである。ただ叔父に連れられて2〜3回パチンコをしたことがある。昔の親指で玉をはじくだけの時代だったが、面白いとも思わず、場内のジャラジャラという玉の音がうるさいだけであった。従って今のパチンコはさわったこともなく操作の仕方は全く知らない。むしろボーリングの方が面白かった。金を賭けてもうけようというのでなく、金を払ってゲームを楽しむだけなので気楽にできた。しかし、これとても友達と一緒に楽しむのでなく自分一人で遊ぶのである。人の顔色を見乍らするのよりも、この方が気楽であり、ピンが倒れた時のカーンという音を一人楽しんでいた。
 人の顔色をみる生活と賭け事は好まなかったので、人との付き合いはないまま、仕事のみの生活をしておったのだが名古屋工場から帰った翌年の冬2月16日、兄の死の知らせが入ってきた。その日は特別大雪が降っており病院へ行き霊安室で冷たくなった兄と対面した。

執筆 :(T.Y)