体験記(2)
小学校の下学年の頃は友達とのトラブル等はあまり意識せずにすごしたようだが、これは私が小さかったので気がつかなかっただけかも知れない。ただ1つ頭に残っているのは2才年下の妹が学校からの帰りに、男子生徒にからかわれるようなことをされて妹が泣き乍ら抵抗しているのを何もしてやれず唯ながめているだけだった。
小さい時から感情的なトラブルには、にげるばかりで何もできない弱虫だったようだ。 神経質の弱い性格と共に、複雑でもめごとの多かった家庭で幼少時をすごした為に無意識的にそういう感情的なトラブル、人間関係の不和についておびえる習慣が身についたのではないかと素人的に考えるのである。60才をすぎた今になってその傾向は残っており、自分の関係する仲間とは すべての人と仲良くと願っており それが強い為か 相手のちょっとした言葉、軽い冗談またはちょっとした皮肉をも、「自分を苛めてくる。もうこの人に嫌われてしまった」と思い、その人と口を利くのもいやになり 物言わなくなり 結果として本当にその人と折り合いが悪くなって ますます苦しむ生活をしてきたのである。
この何かあればその人と物を言わなくなるのは、これではいけないのだと思っても、その時の感情のままに物言わなくなり、日がたてば今まで物言わなかった為に仲良くするタイミングがとれず反面意地のようになり、ますますこじれるような生活だった。
この物言わないというのは母方の身内の血を引いているようです。
母のお父さん(私の祖父)は近所の人とケンカして物言わなくなり、とうとうその人と物言わないまま死んだそうです。
母の兄弟たちにもそのような所があり頑固というか片意地な性質が見受けられた。
私にもそのような傾向を多分に受け継いでいる。今でもそれは残っており人の和を損なっているが、私の父と母は いとこ同士であるが父にはそういう所はあまり見られなかった。
父の遺伝的なものはわからないが父は農業をし乍ら置き薬の行商をしており昔は秋田、岩手、青森方面まで行っていたらしいが、私が小学生の頃には、山口、島根の方へ行っており農繁期はたんぼをして農閑期に出かけて行き3ケ月ぐらいは帰ってこなかった。
私は父に手紙を書いて、父からは、ひらがなの返事が返っていた。
行商をしていた為か人との応対は上手で、次から次へと話が出てきて 人と接して退屈さすことがなかった。私とは全く対照的であった。
行商に行っている間はずっと旅館暮らしなので、仕事とはいい乍ら いい暮らしもしたらしい。毎日同じ旅館に泊まるから馴染になっているので、急に新しい客が来て部屋がない時なんか、父は仕事で来ているのだから寝れたらどこでもいいので部屋を変わってあげ、女中部屋とか ふとん部屋で寝てあげたとのこと。旅館の人からは喜んでくれて特別に最高の料理を食べさせてくれたと話していた。
そんな生活だったので家に帰ると誰もいないのが分かっていても家へ入る時には「ただいま」と言って家へ入っていた。今思うとバカみたいな感じもするが、なぜかそうやって家へ入っていた。
母は子煩悩であり子供にには甘かった。甘いのも度を越していて、いわゆる猫かわいがりと言った状態であった。私がどんな失敗をしてもゆるしてくれた。
三本松にママの店というスーパーがあり、そこへ肉を買いに行かされた。店へ行って店員に「3Kg下さい」と言った。母から言われた数量を忘れてそう言ってしまった。母からは300gと言われたのかも知れない。買った量が多かった為かレジで金を払って帰ろうとすると店員が追ってきて「間違とんちがうんな」と聞いてきたくらいである。普通ならば こっぴどく怒られて もどしに行かされる所だろうが、母はゆるしてくれた。このような類のものはいくらでもあった。
このような体験から私は何をしても大目にみられ ゆるしてくれるという幼稚な心のまま大人になったのではないかと思う。
反面、父にはいろいろ怒られた思い出が多い。昔の農家なのでトイレが外にあり、電気もなかった。夜トイレへ行くのが恐ろしくて、だだをこねたらしい。家の横に古い大きなバベの木あるのだが、その木にしばりつけられていた。義兄が後になって助けにきてくれたのを覚えている。
たんぼが忙しい時には手伝いを さされたのだが、今は見られなくなったが当時は田植えの後、苗が大きくなりかけた頃、草つきを手伝わされた。この時、母が台所へ西瓜を置いて、草つきが終わったら食べるように言われた。子供心に仕事が終われば西瓜が食べられる。その思いで懸命に草つきをしていた。仕事が終わりかけた時に父からこっぴどく怒られた。私のやった所はいたる所で苗が傾いていたのである。草と一緒に稲の苗まで つき倒していたのである。もちろん私が悪い。そしてこの苗はこの土地では作っていない物であった。父が行商に行っていた先でみつけて種もみとして持って帰った収穫量の多い品種で、父が特別に力を入れていた苗だったので怒られて当然であるが、たんぼの中で他のたんぼで仕事をしている近所の人達の前で「仕事する気がないんじゃ」としっかり文句言われて、たんぼの岸でしょぼんとしていた。
その間、父は倒れた苗を直してから「帰るぞ」と言われて父の後をしょんぼりとついて歩いて帰った。西瓜は食べたのか食べなかったか覚えていない。
それから後も義兄に からんだことから始まって、いろいろ父には怒られたり文句言われたりしていたので子供心にも父には反感を持っていた。
父と母とはこのように両極端だったが父の物の言い方がきつく威圧的だった為、感受性の強い私は、特に心にひびいたのかも知れない。実の親子ですので私が憎いはずはないとは思うのだが、私の心は母の方へ傾いて行った。
母からはほんとうに可愛がられ次第に わがままな子どもへと走って行ったみたいで、家の中では好き勝手なことをして気に入らないことがあると物に当たったりしてよく飯台を引っくり返したりして荒れていた。そのくせ外では何も言えず人のいいなりになって典型的な内弁慶であった。後年、森田療法を知って そのことが分かったのであるが子供の時は そんなことが全く分からず家の中では好きなようにふるまっていた。香川の土地では自分のことを「オラ」と言っているが、私は今でも「僕」と言う。母にたずねると「小さい時からそういう風に教えた」とのことだった。これは、一生続くと思う。また びろうな話で申し訳ないが小さい時から下痢気味で なかなか治らず、父母から「恒雄は胃腸が弱いから」といって毎日のようにビオフェルミンという白い錠剤の薬を飲まされていた。後には誰から聞いたのか、よもぎの葉をしぼって盃に一杯づつ飲まされ、これがものすごく苦いのだが、母に言われるままがまんして飲んでいた。そのよもぎの葉に十二指腸虫の卵がいて、その虫が寄生してしまったりした。いつまでたっても下痢が治らないので医者へ連れて行かれたが、そこの先生から「この子の病気は大きくなったら治る」と言われたとのことだった。事実、成長すればいつの間にか治って行った。これは神経性の下痢であり、器質的な病気ではなかったのであったと思う。しかし父母は私が胃腸が弱いということで、かなり長い間薬を飲まされていた。
それでも小学4年ぐらいまでは外で仲間とよく遊んでいたがこの頃を境に段々外に出なくなって行った。まず学校の理科の時間で宇宙の勉強をして、この地球ができた時はドロドロとした火のかたまりであって長い年月の間に冷えて今のようになったこと、そして宙に浮いていて太陽のまわりをまわっていること、太陽はものすごい高温で燃えているとのこと。いくら太陽が大きくてもそんなに高温で燃えているのならば、いつか燃え尽きてなくなるんじゃないか。永遠に燃え続けるのだろうかと思い先生に聞いたが先生もそこまでは答えられなかった。
最近になって森田の本を読んで知ったのであるが、今から約23億年もすれば太陽活動が進行していき地球も太陽と運命を共にすることがすでに分かっているということであった。この気の遠くなるような宇宙空間では今も新しい星が生まれ古い星は超新星爆発を起こして死んでいる。地球上の生物だけでなく無数に輝いている星にも生と死がある。しかし当時はこんなことは全く知らなかった。
その夜、家に帰り、ふとんの中で天上を見乍ら、我々が想像も絶するような熱い火のかたまりであったこの地球に、どうして生命が生まれたのだろう。ふとんの中で天上をながめながら、この天井の板は木でできており山で命を持った植物だった。この木も最初は種から芽を出し何十年もたって大きくなり育ってきたはずである。
火のかたまりであり、無の状態であった地球にどのようにして生命が生まれ今のような姿になったのだろう。このようなことをふとんの中で考えた。
そこから考えが進んで、自分は今こうして生きているが今から100年もは生きられない。何れは死んで行く。自分が死んだ後、この地球はどうなって行くんだろう。
そんなことを思いついた。そうすると胸の奥から込み上げてくるような恐怖がわいてきて、死ぬのが恐くて恐くて、気が狂ったようになり、横で寝ている両親をたたき起こして「医者へ行って死なん薬をもらってきてくれ」と真剣になってたのんでいた。
それでもこの恐怖は治まらず気が狂ったようにして外へ飛び出して行くのであった。夜の外へ飛び出して空を見れば星が輝き、木々の枝は風になびき、近所の家からはまだ明りが点いており、それらを眺めるとスーと気持ちが落ち着き、元の状態にもどるのであった。小学生の子供が死を考えて、このようになるのは明らかに異常であったろう。死の恐怖という強迫観念だったのだろうが小学生の私には分かるはずがなく、それからは20才前ぐらいまで夜暗くなると同じような恐怖が発作的におきてきて、その都度、両親に「死なん薬もろうてきてくれ」と訴えて気が狂ったように外へ飛びだして行くのであった。死なない薬なんかあるはずがないのだが私がそれを訴えると父は「オーその内に もろてきてやるわ」というのが常であり、そのまま放っとかれた。
思うに父のその時の心の中は子供の言うことだからその内に言わんようになると軽く考えていたのだろうが、私の心の治まるどころかいつまでも続いた。中学になった頃には、こうして生きているのは一日一日死に近づいているのだなと考えるようになっていった。
もしあの時、親が精神科の病院へ連れていってくれていたならば、私の神経症の苦しみも、また今に至るようなこともなかったろうか。あるいはこういう性格だから形を変えて違った症状に苦しんでいたかもしれないかなとも思うのである。
このような発作的に人が見れば気が狂ったような状態になるのはいつも暗い所でおこるのであった。明るい時には恐怖はあるものの普通の人と同じように行動することができていた。
当時は三本松に3ケ所ぐらいの映画館があったが母が観に行かせてくれたのは(瞼の母)とか(母恋吹雪)のようなお涙ちょうだいといった類のものしか行かせてくれなかった。ある日、学校の推薦があって行ったと思うのだが、「戦場に架ける橋」という映画を観ていた時だった。戦場で汽車が走ってくる。その汽車が完成した鉄橋にさしかかり橋の中程まできた頃にその鉄橋が爆破されて汽車が橋もろとも川の中へ落ち込んで行くシーンにさしかかるといつもは夜寝ている時におきていたあの死の恐怖が暗い映画館の中で起きたのである。そうなるともう映画なんか観ておれる状態ではなかった。死に対する恐怖で心はガタガタふるえ気が狂ったようにその映画館を出てしまったのである。昼下がりの三本松の商店街は、いろんな人々がそぞろ歩いていた。明るい街へ出て、そんな人々の姿を、そして街の風景を見るとスーと気持ちが落ちついてきて普通の常態にもどるのであった。
死が恐いというのは普通のことで誰にでもある心理であるが、このような精神状態になる私の心は異常な心理だったと今でも思っている。
子供の時からすごく神経質で小心で感受性の強い少年であったようである。
執筆 :(T.Y)