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南天の実が日ごとに赤みを増し、寒さも厳しくなってきました。街にジングルベルの曲が流れているのを聞くと、何となく気ぜわしく感じてしまいます。今日の夕方、中央通りを通ると、美しい光の帯のように木々に灯されたイルミネーションが輝き、なつかしい童話の世界を感じました。
先日「Be!」「季刊ビィ」という素晴らしい季刊誌をお借りしました。家族のことやACのことも書かれている「回復とセルフケアの最新情報」です。(発売潟Aスク・ヒューマンケア)「こんな本を読みたかった!」と感激しています。
この本のなかに、夏目房之介さん(夏目漱石の孫)のインタビュー記事がありました。夏目房之介さんは、マンガコラムニストで「週刊朝日」「サライ」などのコラムBS放送のシリーズを担当し、今年「手塚治虫文化賞特別賞」を受賞されたそうです。以下、一部を要約して書き写します。
漱石は誕生と同時に里子に出され、孤独で悲惨な子ども時代を過ごしている。里親が露天商だったため、がらくたと一緒に小さなかごに入れられ、毎晩、四谷の夜店にさらされていたという。その後も別の家に養子にやられたが、感受性の強い漱石は幼心に、養父母の利己的な思惑を感じていた。やがて、義母が離縁されたため、九歳の時、再び実家に引き取られたが、実の父母を「おじいさん、おばあさん」と呼ぶようにしつけられるなど、大人の間の不自然に捩れた環境で育ち、のびのびとした自由の少しもない少年だった。
「あれじゃ、病気になるのが当たり前ですよ。漱石は文学者としては偉大だったけど、性格破綻者で、夫や親としては最悪でした」
とばっちりは漱石の家族に振りかかった。夜中にどたんばたん、書斎で火鉢をひっくり返す。ランプを壊す。訳もなく寒い庭に飛び出す。妻の鏡子や子供たちに当り散らす・・・。長男の純一氏(房之介さんの父)は、その父の横暴の中で育った。後年『漱石の病蹟』という研究書を読んで、純一氏が、「父は病気だとわかって、ホッとした」と、呟いたという。しかし、その純一氏も、同じ悲劇を繰り返した。房之介さんは親戚やお手伝いさんに預けられるという幼年時代を送った。「漱石も、うちのおやじも、かなり悲劇的に壊れてましたよ。それでも、おやじは漱石ほどひどくはなかった」(略)そして漱石と父の「枠組み」は、間違いなく自分にも受け継がれていた。「おやじのような大人にならないためには、どうしたらいいか」「いかに自分の枠を壊すか」それが人生のテーマになった。
彼を苦しめたのは、ときおり襲ってくる不安だった。「自分の居場所がない・・・。自分が全く無価値に思える・・・」いったん不安になると、もう何をどうしたらいいのか、わからなかった。自分が信じられなくなり、今のままじゃ駄目だという思いに苛まれる。この無意味で無価値な場所からどこかへ行かないと、この先が不安でいたたまれない。
私は、漱石の『草枕』を広げてハッとしている。「とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所に引き越ししたくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。」「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛げて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」と、漱石は書いている。 転換点 ある場所が、房之介さんを救った。バリ島である。何もしない日々を楽しみ、ヨガで体をほぐしている最中にそれは偶然起こった。不意に意識が変わり、「なあ〜んだ・・・・・・・・・・
房之介さんは羨ましいとは思わない。「彼らには見えないものが、僕には見えていただけなんだ」(以下略)
とても心にしみる感動的な(Be!インタビュー)でした。私も十数年間、義母(夫の母)の言葉の暴力やカンシャク・イジメ・嫌味に苦しめられ続けてきました。そして、非常に短気で気むずかしい性格で、私としても心がズタズタに傷つけられてばかりで、もう限界を感じています。家族や嫁である私を暴言でコントロールしようとする義母は、友人が一人もなく趣味も一切待ちたくないようです。回りの人の悪口ばかり聞かされるのもしんどいので、最近ではコントロールされないように、なるべく巻き込まれないようにしようと思っています。
今日、市美術館でイギリス・フランス近代名画展を見てきました。モネやルノアールの絵も出品されていて、百年〜二百年以前の絵を前に心いやされるひとときでした
吉日 記 (ペンネーム m)