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 夏も終末に入りました。庭にはトンボが・・・近所の庭には柿の実がひとまわり大きくなってます。日差しも和らぎ、ゆっくりと外を見渡すこともできるようになっております。小さな川のせせらぎに目が止まります。
 

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 (中略)
人と栖(すみか)と、又かくのごとし」 (方丈記)
鴨長明は鎌倉時代、下鴨神社(京都)での職を辞し、広さは方丈(約4畳半)の質素な居で、世から離れる隠遁生活を行った人です。
「今さびしき"すまひ"、ひとまの庵、みづからこれを愛す」。
世間や人間関係のわずらわしさから、自分の世界を隔した安堵と、少し、見え隠れする世間体に対する言い訳に、身近にぐっと迫ってくる彼の姿が見えてくるようです。
誰でも、人の世のはかなさ、人の心の移ろいやすさそのものに、どんなに心地よい時間を過ごしていても、ふっと、もの悲しさを感じてしまうことがあると思うのです。


先日TV報道で、フリーターはさることながら、大学卆後、ニートになる若者があいついでいる・・今後の対策を・・といった内容が流れておりました。
学校現場の中で<生き抜く力>を養おうと・・文部科学省は訴えているが、果たして・・ 今を生きる意味、生きてゆくあて・・もっと早期の段階で何か出来ることはないのでしょうか・・?!

「軒を争ひし 人の住まい」
軒を連ねている家々も、いずれ形はなくなってゆくものである。つまり、これは背の高くなった草が、軒まで伸び、まるで争っているように軒を隠してしまう様をあらわしていると解されています。
これから連想するのですが、長明は、「家」をどのように捉えていたのでしょうか?
私のおもいのところは「家」は住むための道具ではなく、情緒を育む場なのではないでしょうか・・。住まいが家族の形、社会との関連するところ。生活の流れは変わってゆくと思うのです。幸せになりたい。こう生きたい、というおもい。これは、他者や自分に対しての愛情から発するものではないでしょうか。このように考えてみると長明の語る「無常」は「無情」でないのでしょう。  
 

編集後記

 8月の暑いウィークデー。万博(愛地球博)に行って来ました。ゲートでは厳戒体制・・テロ対策だ。やっと入場。一口でショック。30年前の万博(大阪)とは段違い。まず、建物に個性がない。全て箱物(企画品)。その上企業館には整理券なく入館できず・・周辺をウロウロ・・ならば上空から眺めもよしと黄昏時に、やっとゴンドラに乗り込む。奥深い静かな山あい、一方で大きなスクリーンに大勢の人々の歌とダンスが映し出されていた・・。暑い一日のおわりであった。

(G記)