諦める

季節は秋でした。数年前に「香川いのちの電話」の養成講座「嗜癖問題について」のお題を頂き、講師として相談員さんの前に立ち、講話もほぼ終了近くになるその時です。私の話を遮るかのように突然その場で立ち上がり「嘘です。そのように上手く行くはずがありません!」と抗った中年女性の姿がありました。会場の方々も一瞬何が起きたのかわからず固まり、女性の話に聞き耳を立てていました。

「私はアルコール依存症の夫を昨年亡くしました。」というのです。「どうしょうもない夫でした。助言に基づき子供と意を決して家を出ました。でも気がかりなので近隣の親しい方にその旨を伝えておきました。ある日連絡が入りました。“回覧板をお持ちしたがご主人さんが家から出てこないの・・・新聞もポストに・・?”と言われ胸騒ぎがし、即自宅に帰りました。そこには息をしていない夫がありました。」「依存症は治りませんし回復もしないのでは・・・何十年も苦しみ、結果、家族の私は・・」と半ば鳴き声で訴え、退出されました。

受講者の方々はその場で黙ったまま、演者の私もその出来事に一瞬言葉を失いました。「あの方は、妻としての自責感にさいなまれていらっしゃるのでは、自分の気持ちを整理、手掛かりが欲しくて受講していただけたのだと思います・・」と締めた。

当初は目前で困っている方を「何とかしてあげたい」との思いで関わっていた自分がいた。専門家集団からしたら「共依存」と指摘されるかも、でも、今思えばこの気持ちがあったからこそしっかりと相手を見ていくことにつながったようにも思う。

そのようななか、「人は変われる」ということを実感した。ここから「待つ」という行為が伴ってきた。「待つ」ということは「静かに見守る」ということであり、同時に「今、目前にいる人を受け入れる」ということになる。この時点で信頼感が得られ、変化の筋道が見えてくる。相手を変えようとすればするほど変わりません。こちらが変えることを諦め、丸ごと受け入れる。人は受け入れられたことを確信すると、不思議と変わっていくものです。専門用語で「受容」といいます。

これを関係の変化といい、この関係こそがダイナミックな働きで病者(相談者)と家族、病者(相談者)と援助者の関係の中で起こる問題となる。病者(相談者)の変化ということと援助者の変化ということが一連の問題として繋がってくるのです。

次に「聴く」ということがカウンセリングの中核となる。第一点は問題解決の視点を持ち、解決に向けて相談助言をしていく方向となる。八方手を尽くすが上手く行かない。“困った、どうしたらよいのだろう?”という段階になると、励まし、助言のみをしていることが多々ある。この状態は話を聴くどころではなく、その相談者との関係を切り上げたいと無意識に思っている状況に陥っている。こうなれば相談者は“わかりました”と援助者に従う姿勢を取るが、この時、相談者は果てしなく苦しむことになる。

援助者が問題解決まではせず、ただ黙って聴き進めると相談者の気持ちの流れがみえてくるようになる。相談者自身も自分の気持ちを明確に実感でき始める。この関係は「前にも進めず、引くに引けず、でも二人の心は揺れ動いている」という状況です。ここで、問題解決を「諦める」ということが大事になる。『飲む(する)飲まない(しない)は、本人にしか決められないもの・・・』で相談者の問題になるのです。支援する家族も諦め、こだわりから抜けることです。このことが、できないことを受け入れる深い体験となっていくのです。カウンセリングとは状況変化から離れて相談者のしんどい思いを聴くことです。これを「傾聴」といいます。

「諦める」とは「明らかにする」ということで、相談者自身が出来ること・出来ないことを区別していくことです。直接的には「コントロール飲酒(使用)を諦める」ということになる。

相談者は依存(物質・行為など)するだけではなく多くのものを抱えており、もっとも諦めの悪い人だと思う。人生思い通りにはならない。情けなさを抱き「自分は~ありたい」と思うが、否応なく手放さざるを得ない現実に直面することになる。このとき、無力感、苦しみ、理解してくれない孤独感、酔っているからできないという劣等感を持つことになる。相談者はこれらを諦めきれないがゆえに飲酒(行為)を必要とする。相談者にとって諦めるとは人生を諦め、飲めない(行為)ことは死と匹敵することになる。ここから「否認」をし、自らを守ることになる。

否認とは、酒(行為)を上手くコントロールできないことを自分が一番よく知っているのだが心の奥底で声がすることである。“もうそろそろ上手く飲めるのでは?”“そんなことはない”と相矛盾した感情が駆け巡ることで、最後に「酔い」の力を借りて否認を強めていくことになる。

ここで、酒(行為)をやめるしんどさ、辛さ、失う恐れを黙って聴いていくことが大事となる。これを「共感的理解」という。止められない自分が受容されるという体験があって初めて酒(行為)から手を放すことができる。この時点で酒に代わって生身の人に受け入れられ、人との繋がりが新たな命綱になっていく。

援助者らが相談者を理解していくと<飲むな>とは言わなくなる。何も言われなくなるとこれまで人のせいにして飲酒(行為)していたのが、人のせいにもできなくなり、自分の内側にあることを自覚し始める。このことこそが「諦め」である。

この段階を経て、「自助集団」に足を運び、集団という場の中で自分を見つけていくことになる。ここに繋ぐ役割をしていくのが援助者だと考える。

「依存症」という病は、人と繋がることにより回復の道を歩むということを臨床体験の中で学び、関わる側の世界観を転換させられることになりました。

(G記)

編集後記

今年も11月半ばに…皆さんは「ゴーツーイート」に応募されましたか。応募したのがすべて当たり!ラッキーと思ったのも束の間。手にしてみて初めて「5万円も何を食べたらよいものか?」正直馬鹿なことをしたと反省しております。該当店舗も調べず応募・・。今からされる方はよ~く検討して応募ください。あと、一か月足らずで令和2年も終わり。コロナも終焉してくれればよいのですが・・・。今年は1月からこれまでにないコロナ事件が勃発して、人が生きるとは、格差とは、経済とはいろんなことを考えさせられた年になりました。今年も参加・購読くださり感謝します。来年もよろしくお付き合いくださいますことを祈りながら挨拶に代えさせていただきます。

(G記)