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エフコ

ドイツ・ノルウェー紀行  

―― ゴスラーへ ―― 

 ゴスラーという街へ行った。まずはクリストフが車にガソリンを満タン・ドイツはガソリン1l 230円(日本円に換算して)ゴスラーはブレーメンから高速道路を2時間走った街。ドイツは黄金の5月。花々は一斉に咲きそろい。風は一年中で一番心よい季節。高速道路の両側はドイツの広大な台地に麦畑の濃い緑と菜の花畑の黄色がパッチワークのよう。その風景が延々と続く。ゴスラーは高地で白樺の木が多い。街中は観光客が多く、馬車にお客を乗せて街中を案内する馭者も何人かいる。ゴスラーは鉱山で栄えた街。15〜16世紀に最も鉱山が繁栄した時代に建てられた木組みの家は豪華に装飾された、今なおユネスコの世界遺産として修復され大切に使われている。 一部商店街になっているがこの日は日曜日。ドイツは日曜日はレストラン以外は全部お休み。商店街は全部閉まっていた。ゴスラーは魔女の伝説がある街とか。どうりで、ショーウィンドに魔女の人形があちこちかかっていた。

 マルクト広場の一角には時報に合わせて、鐘がメロディーを奏でゴスラー近郊の昔の鉱山の採掘をからくり人形が出て再現してくれる塔がある。

 
 オープンカフェーで休憩。私達はそれぞれ好みの飲み物を注文(日本の喫茶店のように水・おしぼりは出ない)。娘がシュークリームのおばけのようなお菓子を注文した。我々はそれを家族四人(子供二人)そのおばけのように大きなシュークリームを一人一個づつとは、あきれてしまった。が、クリストフは「僕は食べられるよ」という。ドイツ人は甘いものが大好き。バターたっぷりも大好き。若い女の子も丸々肥っているのがあまり気にならないよう。その体型でヘソ出しルックの女の子を多く見かけた。


  ゴスラーの帰りにウェルニゲローデ城に行った。標高350mの山上にそびえるお城。36室からなるお城の中は、古い美術品・絵画が飾られてあった。王様、お后様の寝室があったが、寝室が小さく短いのである。聞くところによると、その時代は足を縮めて眠ったよう。足を伸ばして眠るのは死体になった時のみとか。昔の日本の侍は高い枕で眠っていた。それは熟睡してしまっては敵に命をとられるからとか。それぞれの国の文化の違いが興味深い。

 

―― ベルリンへ2拍3日の旅 ―― 

 
 ブレーメン駅より娘と私達夫婦・二番目の孫(もうすぐ一才)をベビーカーに乗せ電車に乗り込む。ハノーファーで電車を乗りかえベルリンへ。娘はポーランドへ行くという子供連れの女性と仲良しになっていた。

 ベルリンへ到着後まずはホテルへ。ホテルに荷物を置いて、ポツダムへ。まずはフリードリッヒ二世が作った広大な金ピカのお城サンスーシ宮殿へ。290ヘクタールの広さの庭園の中に何ヶ所もの離宮がある。サンスーシとはフランス語で「憂いの無い」という意味で日本語では「無憂宮」と呼ばれているよう。何百室もの部屋数があり、華麗なロココ式の宮殿。あまりにも美しく豪華で圧倒された。数多く豪華なものがあるので見て回るのに疲れてしまった。フリードリッヒ二世は愛犬しか信じられず犬と一緒に墓に入りたいと遺言。死後200年以上もたって、東西ドイツ統一後、大王の亡骸は愛犬たちとともに、静かに永久の眠りについたとのこと。

サンスーシ宮殿

 ポツダム会議の舞台、ツェツィーリエンホーフ宮殿へ。ポツダム会議が行われた場所というのに興味があった。静かな場所に建っている宮殿。中には入らなかったが会議が開かれた場所はそのまま保存されているよう。今は宮殿の一部がホテルになっていた。
 

ベルリンはマロニエ大木が多くあった。ピンクの花が満開だった。ライラックの花もよく見かけた。
●ドイツの学校では入学式とか、卒業式とかはないよう。それに制服を着ている人が少ない。警察官とか列車の乗務員とかは制服を着ていたが、後は見かけなかった。ナチスを思いおこすようなことはしないとか。
●ドイツのエレベーターには閉の印がない。日本の人はエレベーターに乗ったらよく閉を押す。日本人はイラッチが多いのかな? 駅にはエレベーターが各所に便利よく設置されている。
●ベルリンは二階建てバスが普通の乗り合いバスとして市内を走っている。観光客は二階の一番前の席、特等席に座って観光できるよう皆その席を目ざしていた。

 二日目は、ベルリン市内観光。ドイツが東西に分かれていた時代、ブランデンブルク門は東ドイツ。ドイツ連邦議会議事堂は西ドイツ。その間の距離、私の感覚では500メートル以内。東西ドイツに分かれていた時代、西ドイツの政治の中心はボンであった。旧東ドイツにあった東西を分ける壁はブランデンブルク門とドイツ連邦議会議事堂の間にあった。今は道路に、ここに壁があったという印だけが残っている。 東ドイツの時代に作られた壁は最初は印程度のものであったよう。ある日突然お隣さん同志だった人達がいきなり東西に分けられてしまった。初めの方はちょっと跨いで行き来ができたよう。自転車も少しもち上げて買い物に行ったり親戚へ行ったりできていた。徐々に高くなり警備も厳しくなり、最後は全長155キロ・高さは4メートル10センチあったという。

 1989年11月9日ベルリンの壁は崩れた。ベルリンの壁記念センターには、壁建設直後、壁に面した建物から飛び下りて西へ逃げた人々や、いろいろに工夫をこらして西側へ逃げてきた人々の証言や銃殺されてしまった人々の話が、フィルムや証言テープ・パネルで保存されていて当時の様子を知ることができる。日本語で案内してくれる貸し出しもあった。
ブランデンブルグ門の奥には旧東ドイツの時代に建てられた丸になっている部分のある高いテレビ塔がある。
 ドイツ連邦議会議事堂。入場料無料。世界各国からの観光客が長蛇の列を作っている。私達は孫をベビーカーに乗せているおかげでこの長蛇の列を横目で見ながら、優先して別の入り口から入場させてくれた。といっても連邦議会議事堂への入場だからか、警備員が何人もいて、飛行機に乗るのと同じチェックを受ける。エレベーターに乗り最上階へ。屋上部分にあるガラスのドームの中をスロープで登って行く。ガラス張りのドームは360度の眺め。遠くに富士山の形をした屋根のソニービルが見えた。

 市内観光は川で船に乗っての観光。ドイツのメルケル首相がいる首相官邸は白亜の城のように見えた。ベルリン大聖堂、テレビ塔、どれもどれも規模が大きい。教会の数も多く、いろいろな宗派の教会があるようで教会の塔の形がそれぞれ違う。娘の声がだんだんと出なくなってきた。私達にしっかりいろいろなものを見せてあげたい、教えてあげたいと思って説明してくれるのと、1才にならない子どもの世話をしながら両親を楽しませてあげたいと思う心から疲れが出てきたよう。

 

 三日目は、ホテルを出てまずペルガモン博物館へ。荷物を預けた。身軽くなり列車に乗って約1時間ザクセンハウゼン強制収容所へ。ユダヤ人・敵国の捕虜・同性愛者・障害者が収容されていた。冬は寒い寒いところのよう。氷点下になる気温の中で暖房もなくシャワーと言っても水だけ。狭いところに多くの人が詰め込まれ、男・女同じに青と白の縞模様の服を着せられ労働を強いられていたよう。広大な敷地の入口の門には“労働は自由をもたらす”の文字が書かれた鉄の門扉がある。ここでは10万人以上のユダヤ人が犠牲になったとか。死体はここに入れられている人達が凍った土を掘って埋めたとか。敷地内の森の中には、まだ多くの人々が遺骨として眠っているよう。あまりにも残酷で私はここではカメラのシャッターが切れなかった。

記:エフコ