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(J子さん)

「犠牲〜サクリファイス・わが息子・脳死の11日」

 私は看護師を目指しながら、医者のあり方、患者の気持ち、人としての道を真面目に考えたことはなかったように思う。
 この本で出会った洋二郎さん。彼は、死後、自分がこの世に生まれたということすら人々から忘れ去られ、歴史から抹消されてしまうのではという、絶対的恐怖を抱いていた。誰の役にも立てず、誰からも必要とされない存在。社会に出られない自分との葛藤の日々は生きる希望も見いだせず、生きることへの展望も持てず、きっとつらいものだっただろう。それでも彼は、安定剤や睡眠薬を使ってスクーリング通った。友人には自分のつらさを押さえてもやさしい接し方をする。彼は、不毛なもの、つまり自分の人生を希望に変える意志を持ち続けようと、苦悩と闘い、そして、それから開放される日がいつかくると信じていたのだろう。彼は闘っていた。そしてその闘いは、鋭い感受性、優しい心を持ち、他者の苦悩を深く理解してしまうが故にはじまったのだ。洋二郎は、幼い日から傷を負い、病を持ち、挫折し、知らずして多くの人々のために、身代わりになったのではないか・・・。
 富岡医師、彼は洋二郎の死までのプロセスにかかわりそのプロセスに「共有」される生命の精神的側面を大事にした。医師は、洋二郎と「三人称」ではなく「二人称」でかかわっている。洋二郎が昏睡状態に陥っても、意識がある人と同じように接し、また家族に対しても、愛するものを喪う悲しみを癒すグリーフワークを視野に入れたターミナルケアを行った。
 脳死段階で死と認められなかった家族が、納得のいくかたちで臓器提供を決心できたのは、家族が死にゆくものと会話し、受容するのに十分な「時間」と「場」を医師が与えたからではないだろうか。医師としてはなるべく早く脳死患者から臓器を取り出し、他の患者を救いたいだろう。
 臓器移植とその家族、科学的に脳死の人はもはや感覚も意識もない死者なのだと説明されても、その体は個人の歴史を刻みこんでおり、精神的な生命を共有しあってきた家族にとってはそんなに単純に割り切れるものではない。まして、その愛するものの肉体から臓器を取り出すことなど、考えられない。
 洋二郎の家族の場合は、医療側の誠心誠意のケアに慰められ、「誰の役にも立てず、誰からも必要とされない」と悩んでいた洋二郎の体をドナー登録することを決意した。洋二郎の悩みを彼の日記から知った家族は、彼の体を人の役に立てることによって、彼の死を成熟させようとしたのだ。
 生命を授かってから今日まで人々の愛に育まれ、誰かの犠牲により生きてこられたことは確かだ。それなら、自分も人々を愛し、誰かのために自己犠牲を捧げなくてはならない。犠牲とは愛の精神であり、人間が生きる上で最も大切なものだ。人は誰かの自己犠牲(愛)の上に生きているのなら、人が生きて人を愛することは必ず誰かの役に立っているのだ。すべてに愛の心を持ち、犠牲の精神を心に生きての上に生きているのなら、人が生きて人を愛することは必ず誰かの役に立っているのだ。すべてに愛の心を持ち、犠牲の精神を心に生きていこう。そして人生において、迷い、葛藤し、自分の生きる意味が見いだせない時には、この本を思い出したい。