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サボテンに学ぶ

敵から身を守るということは、すべての生物に共通している本能である。ここでいう外敵とは広い意味では私たちが生存する自然と社会におけるあらゆる不利な条件をいう。暑さ寒さに対して、様々の病原菌に対して、複雑な人間関係等々、我々自身が防衛しなければならない敵は無数に我々を取り巻いている。

こういう敵にどう対応するかによって人間の生き方考え方が分かると思う。この点についてサボテンからヒントを得てみたい。

若い頃私は100余りのサボテンを育てていた。サボテンは、元々は幹と枝葉を持った普通の樹木であった。この原始のサボテンは杢キリンという名前で今も実在している。これがサボテンである証拠に他のどのサボテンを接ぎ木しても立派に成長するのである。

普通の樹木であったサボテンが、なぜこれ程までに千変万化の姿になったのだろうか? それは自生地の環境が変化した事に順応したからである。砂漠化して少ない水を確保する為に幹を太く多肉化していった。連日照りつける強い太陽によって水分の蒸散を防ぐ為に葉を落とした。葉がなくなると光合成ができなくなるので、葉緑素を幹に持ってきてそれを行い、気孔の数も最低限に減らした。幹に水分を蓄えると乾きに苦しむ動物の餌食になるので葉を棘に変えて身を守ると共に密集させた棘は苛烈な太陽の熱から球体を守るすだれの役目も兼ねている。

稜

サボテンの幹が凹凸しているのは稜(りょう)といって雨季には縮んで稜は深くなって水分を吸収して大きくなり、乾期には縮んで稜は深くなって体積を自由に変えられると共にこの稜によって、強烈な太陽の熱を受けても裏側は常に影になり受けた熱を放出している。稜を持つことでこの影の面積を広くすると共に、稜を利用して砂漠を吹く風を受けて球体を冷やし体内の水分が湯になるのを防止している。空冷エンジンのラジエーターの役割も兼ねているのである。

最も過酷な環境にいるサボテンは球状になった! 雨季に水分を確保する為に体積を大きくした。球は最小の表面積で最大の体積を持つ。このような幾何学的な計算をサボテンがしたかどうか知らないが環境に順応していった究極の姿である。

砂漠に生きるサボテンは長期の乾燥に耐えられるように植物体全体を貯水タンクに改造したのである。終日陽光をさえぎるものがない大平原に生きている種類は大型である。太くたくましい幹でないと激しい乾燥に耐えられないからである。雨量や土中養分に限りがあるので、各自が自分の領域を確保して余計な固定の侵入を許さない。

一方高山にいるサボテンは夜間の気温の低下及び雪の寒さにさらされている。この環境から身を守る為に長い毛を生やした。この毛により日中の強光と夜の低温に耐えられるようにすると共に、直接雪が幹に触れて凍傷になるのを防いている。この毛を利用して寒風を避けるようにもなっている。その上体液を濃くして幹が凍結しないようにしているのである。氷点下以下の低温や強風の苛烈な高山には小型で低いものが多く、子や枝をたくさんつけてひとかたまりになっている。団結の力で悪条件に耐えているのである。

棘を持たなかったサボテンは動物の食害を避ける為に球体を固くして歯がたたないようにしてしまった。すべてを堅くすると水分の増減により体積の伸縮が不可能になる為、稜の谷間だけは柔らかくしてそれを可能にしている。従って彼等は生きた岩石と呼ばれている。

入鹿

水を求めて移動するサボテンも現われた。植物が動くということは信じられないと思うが、植物らしいやり方で動いていくのである。細長い棒状の幹で地面に横たわり、水分は幹の元から使っていき、使い終わった幹は枯れていく。そして成長点は前へ前へと分岐して伸びていく。このようにして何年か先には元いた場所から遥か彼方へ移動しているのである。自生地のこの一群を見た人は思い思いに頭をもたげて群生しながら前進している姿は群れた蛇が鎌首を持ち上げてのたうっている様で、気味が悪いほどだと言う。そして彼等の進んだ跡には、水分を使い果たして干からびた残骸だけが残っているという。それ故に彼等には這い回る悪魔という異名までついている。

コンブ状

高温多雨の熱帯性森林では厳しい乾燥や寒気に備える必要がない。彼等はあるいはコンブ状になってほとんど貯水組織を持たない。あり余る水分を放出する為に砂漠とは反対に表面積を大きく体積を最小にして気孔の数も増やし、ジャングルでも生きられるように適応したのである。細紐状あるいはコンブ状になると自力で伸長できなくなるので、気根を出して他の樹木にからみついて成長している。

一本の植物が生きる為にこれ程までの英知を発揮しているのは誠に驚嘆に値する。サボテンがこのように千変万化の姿になった背景には環境の変化に適応して、唯進化していっただけであろうが、今改めてサボテンを眺める時、環境を変えるのではなく自分が置かれた環境に自分自身が変化して順応しなければならないことを示唆しているように思えるのである。

これが生きるということではないでしょうか?

執筆:T.Y (2016年.2月記)