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体験記 (86)

 複雑な家庭に生まれ、3日にあげずのケンカばかりの中で育ち神経質な母の血を100%受け継ぎ、誰が自分に好意を持ち、誰が敵意を持っているかを常に意識して生きた人生だった。小中学校では、ちょっと何か言われると、私は嫌われているから、こうしていじめられると考えて人中へ行くのが恐くて逃げるばかりであった。
 社会へ出ればいじめもないだろうと、就職したものの、私の心がそんな風だったから、人の思惑に一喜一憂するのは変わらなかった。定年までの44年間、三ツ星で勤め上げたけれども、最初から最後まで、人の顔色を見てきた人生だった。人から何かいわれる、される等、それが自分に不快なことであれば、これを自分に対する嫌悪の表現と考えて、いつまでもその人を憎み対立する人生だった。高良先生の著書の中に(金色夜叉の貫一のように、一度失恋すると、その痛手で人生観まで変わってしまい終生その傷を感じている者もいれば、今日失恋しても1週間後には新しい恋に熱中しているという者もいる。前者を偏執的といい、後者を軽薄というのである)とあった。この意味からすれば私のように一度人間関係に溝ができたら、それにこだわっていつ迄も修復できないのは、偏執的の部類に入るのではないかと、思うのである。人との交際に慣れていないから緊張してしまって応対がぎこちなくなってしまうのである。
 異性がそばへきただけで石のようにコチコチになっていた。リラックスして会話を楽しむことなどできなかったのである。
 20代の頃は社員の平均年齢も若く、独身の男女がほとんどであった。
 当然のように、あっちでこっちでカップルができていた。従って職場結婚が多かったのである。その為か町内では三ツ星のことを、桃色会社と言われていたぐらいである。
 私はこんな性格だったから、せっかく桃色会社に勤めていながら浮いた話一つ作らなかった。人からは仕事一筋で、歩くのにもまっすぐ前を向いて歩いていたので、はた目には品行方正に映っていたとのことであった。若い頃、同僚から「山下君チューブの女の子たちからお前のことが話題になったけど、お前が知らん顔しとるから消えてしもたわ」と言われたが、これは当然のことである。
 対人恐怖の苦しみに明け暮れして、人の思惑に戦々恐々としていたので、そんな心の余裕はなかった。
 悩みを会社の上司に相談したりしていたが、「山下君、友達を作れ」と言われた。しかしこの年になるまで親友と呼ばれる人は誰一人としてできなかった。できなかったというより作らなかったのである。人と会った後、あゝ言ったが怒ってないだろうか? こういう態度を取ったが、気を悪くしてないだろうか? また相手の言動をもそんな風に考えて、人に会うのが苦痛であったから友達ができるはずがなかった。こういう風だったから人と会っても話題が出てこないのである。20代半ばから見合いの話があったが、次々と断られたのも(物言わん)という理由だった。これも今までに人付き合いの体験がないので、どう接していいかが分からなかったのと人の思惑に左右されるので言葉が出てこない為であった。
 すべてにおいて消極的なのも相まって人から敬遠されたのである。それでも27歳で今の家内と結婚はしたが、家内の身内は、こんな消極的で無口な私を心よく思っていなかったみたいである。(当然であろうと思う)お義さんからは「口に蜘蛛の巣がはるよ」と言われた。家内もこんな私と結婚したことを後悔していると言う。(物言わんと陰気なので結婚するんじゃなかった。これから何年こんな生活が続くのかと思うと嫌になる。)そんなことまで言われた。
 若い時から人との付き合いがなかったから(特に異性とは全くであった)家内との接し方も分からずに、自分中心の考えで生活していたので、女の側から見れば物足りないのと、たよりないのであろうと思う。

執筆 :(T.Y)