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体験記 (73,74)

 不潔恐怖で会社へ行くのが苦しく、人が私の服に触れただけで服を洗ってしまう生活で、毎日がゆううつで寂しかったのだが、岡さんからは「ホームシックになってるんだろうが」と言われて心の内部は他人には分かってもらえないのであると理解した。
 週末になると、やっと溶剤から離れられるとホッとして心が上向くのである。そして、四国に残した母が心配になり時々電話をかけていた。家からかけると家内に聞かれるので、仕事の帰りに浦賀駅の公衆電話を使って電話をしていた。その為に小銭を貯めて1回の電話で1000円を使っていた。投入した金が残り少なくなると「もう金がようけないから、電話が切れたら止めるぞ」と必ず母に告げていた。これは話し中に電話が切れたら、母が「恒雄は怒ったのだろうか?」と思われないかと考えての事であった。これはどこまでも神経質の取り越し苦労がでているのであった。
 横須賀で4年間生活したが、毎年夏休みに四国へ帰っていた。最初の年は母を呼んで遊びに連れて行って母と共に帰ったのだが飛行機に乗せてやろうと思い羽田から高松へ飛んだ。母が「東京タワー以上やのー」と言って生まれて初めての飛行機に感激した様子だった。母にとって生涯で1回だけの飛行機体験であった。2年目以降は新幹線にしたかったが、長時間座っているのは子供が飽きてぐずったら困るので毎年ブルートレインで一晩かけて往復していた。2段ベッドになっていたので子供は梯子を上下して喜んでいた。
 しかし列車が発車する時は新幹線は音もなくスーッと発車するが、夜行列車はガッタンと大きな音を出して揺れて発車するので眠れたものでなかった。
 結局4年間の横須賀の生活で、旅行好きの家内に引っ張られていろんな所へ遊びに行ったのだけがいい思い出となって残っている。最後は車で伊豆半島まで走ったり京浜急行のツアーを利用して伊豆大島へわたり三原山に登って噴火口を上から眺めた時は、家内が「お父さん来てよかったな」と感激していた。
 三原山へ向かう溶岩だらけの砂漠の中を歩いていると「安くしとくから乗ってかないか?」とロバを連れて業者がしきりに誘ってくる。
 観光地は何処へ行ってもその土地に特有の商売があるもので、そこでしか味わえない体験をさせてくれて、人間の英知に感心させられるのであった。
 私は旅行も好きだが家では動植物を育てるのが趣味である。借家暮らしの為、勝手な事もできないが、それでも玄関に水槽を置いて金魚を楽しみ、一方、庭籠を買って相思鳥という姿と鳴き声の綺麗な朝鮮ウグイスを飼って楽しんでいた。帰郷する時は近所の人に世話をたのんでお礼に四国の土産を買って帰っていた。近所の人は快く引き受けてくれて助かっていた。一度は四国から浦賀へ帰ると近所の人が「鳥が逃げてしまってすみません」と言って同じ鳥を買って弁償して気の毒した事がある。「逃げてもいいから」と言ったが買ってくれた。四国の近所の人にこんな事をたのんでも絶対に引き受けてくれない。そういう意味でいい人間関係の中で生活できてその点は、幸せであったと思っている。
 唯、言葉に関しては子供はすぐに関東弁になり家内も意識して喋っていたみたいだが、私は直す気はなく、同僚と電車に乗って帰る時、私が喋ると電車の乗客が一斉に私の方を向くので同僚が「俺、山下さんと一緒にいると恥ずかしいよ 直す気が全くないんだから 俺は秋田から出てきて半年で直ったよ」と言われたが、この点については無神経なのか何ともなかった。直そうという考えもなかった。従って方言で苦しむような事はなかったのだが、この心がとらわれるのと自由の違いであり不潔に関しては、何とかしてなくしたい、汚物に触れない様に、汚れたと思ったらすぐ洗ってしまうから、ますます苦しくなるのだとは分かっているのだが、心を変える事はできなかった。
 四国から転職してきた人は10人余りもいて皆、讃岐弁で喋っており そういう仲間がいたからかも知れない。
 その為に会社で話しする時、意味を聞かれて通訳していたが、むしろそれが面白かった。
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 横須賀での生活は、わずか4年の短い期間であったが、いろんな思い出が一杯できた中味の濃い4年であったと思っている。30代と若かったのと経済的に困らなかったからできた事であろうか?
 会社では5人がチームを組んでの仕事だったが、その中に橋本さんと言うおばさんがいた。休憩時間に皆がいなくなると、よく菓子をくれた。「山下さん皆が帰らん内に食べなよ」と言ってくれるのだが、不潔恐怖で手が汚れているので「手を洗ってないから今度もらう」と言って断ると、「じゃー食べさしてあげるから口開けなよ」と言って食べさしてくれる。断ることもできなくなり仕方なく口を開けて食べさしてもらった。時にはおにぎりをオーブンで温めてそれも食べさしてくれた。まるで、母親に食べさしてもらってる子供のようであったろう。しかし今、振り返って思うには橋本さんも手は洗っていなかった。従って橋本さんの手にも溶剤がついている可能性はあるのであるが、自分の事しか考えてなかったので食べさしてもらった事で安心していたのである。神経質の悩みとはこんなものである。
 これは小鳥の態度と同じであった。小鳥は非常に神経質である。四国にいる時カナリアを飼っていたが、春に雛をかえしたので楽しみにしていた所、一羽が巣から落ちていた。まだ毛もはえていない丸裸であったので殺しては大変と思い手でつかんで巣に入れてやった所、翌朝は孵化していた他の雛も全部下に落ちて死んでいた。訳が分からず小鳥屋に聞きに行くと、「素手でさわったんでしょう。その為に人間の匂いが雛についたので親が警戒して落としてしまったのです。手袋をはいてやれば良かったな」と言われたので私が「しかしエサや水やりとか籠の掃除なんかは素手でするんですよ」と言うと「それは何でもないんだが、雛だけにとらわれるんです雛に人間の匂いがつくとそれだけで放り出してしまうんです」と言われた。このカナリアと同じ心理が症状にとらわれている神経質者の心であるが、当時はそこまで考えが及ばず、自分の体に溶剤がついている、それをなくしたい、それしか頭になかったのである。
 他人の体に溶剤がつくのはどうでも良かった。自分だけがきれいであれば良かったのである。
 森田療法で、神経質者は自分中心であると言うのは、この事であろうと思う。要は自分の事しか考えていないのであった。
 それでも橋本さんにはいろいろもらって食べた。四国へ帰る最後の日に会社の提案制度で仕事の改善をして会社からもらった賞金2000円を橋本さんにあげて帰った。
 あれから30年余、橋本さんは生きてたら、もう80歳はとうに超えているだろう。今はなつかしく思い出している。

 

執筆 :(T.Y)