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体験記 (69,70)

 人の心というものは本当に分からないものです。田村さんが食堂が近づくと毎日(お腹がすいたね)と言ってきた意味は分からずじまいであった。私の勘ぐりかも知れないが。
 一方新田という若い男が「山下さん乗って帰りますか?」と言うてきた。三浦半島から車で来ていて、方角が同じなので乗せてくれるのかと思って乗せてもらった所、かなり走った所で「山下さん安倍さん宅へ行きませんか」と言ってきた。
 安倍さんは、四国から転勤してきた仲間なので親しくしていた。行くのはいいが、「今行くと飯時分だぞ」と言うと、新田が、「山下さん俺、人の家へ行くのは食事時に行くんですよ。そしたら飯食べさしてもらえるから」と言うたので驚いた。普通は人の家を訪問するのは食事時を外すのが礼儀であるのに、その時間を狙って行くのは考えられなかった。
 車でかなり走っているので電車で帰ろうにも無理なので安倍さん宅へ行かざるを得なくなった。案の定、安倍さんは飯出してきてビールまでくれた。喜んでもらう気になれず帰りたくて仕方がなかった。新田は運転しているからビールは飲めなかったが、帰りの車の中で「山下さん俺ビール欲しかった」と言った。用もないのに食事時をねらって他人の家を訪問して飯を食べさせてもらう(お前は乞食か)と言いたかった。これも人付き合いの体験がない私の視野の狭い考え方であったのだろうかと思う。一方不潔恐怖は段々ひどくなり、苦しいので会社から医者へ行くようにと、横須賀市内の総合病院へ連れて行かれた。そこで薬を処方され苦しさのあまり指示通り服用した所、じっと座っていることができなくなり、歩きまわるようになった。会社では「元気がないよ」と言われるが自分では普通に行動しているつもりなので意味が分からなかった。
 工場長から「一ヶ月会社を休め」と言われたので、溶剤にふれるのが嫌で会社が苦痛だったので、喜んで休んだ。会社は(休んで仕事から離れたら立ち直ると思った)との事だったが、これは森田療法に反するやり方だったので、治るはずはなく症状はひどくなっていった。
 薬を飲みながら、ぶらぶらと遊んでいた。そんな生活の中、家族4人でデパートへ買い物に行った時、店の鏡に映った自分の姿を見てあぜんとした。まるで幽霊が立っている様な姿であった。会社で(元気がないよ)と言われ、また家内からは「ボーっとしている」と言われた意味が分かった。一体どんな薬を飲まされたんだろう。病名を聞くと「治ったら言います」と言って言うてくれなかった。
 一ヶ月後にしぶしぶ会社へ行くと工場長から「山下君、四国へ帰りたくないか?」と言われた。
 医者が会社の方へ(四国へ帰してやれ)と言ったらしい。帰れば、また母との軋轢があり悩むだろう。横須賀は生活するには非常にいい所である。不潔恐怖がなければ定年までいてもいいが、この苦しみから逃れたかった。
 工場長は「今のように家族がバラバラではだめだ、四国へ帰って家族が一つになって、必要なら君だけ上京して森田療法というのを受けたらいいではないか」と言ってくれた。一生帰れないと思っていたが、このようになり四国へ帰れて元の職場で働ける。しかし家内は帰りたくないと言った。それには母との軋轢の為という事は分かっていたが、会社からは四国へ再転勤の辞令が降りた。自分の事しか考えていない私は四国へ帰る事にした。家内の気持ちは全く考えていなかった。森田療法の(自分中心)そのものであり、これは今でも残っている。

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 四国へ帰ることになった最後の月に、これまた最後の横浜集談会へ出席した。この時は初めて家内も一緒についてきた。集談会で、症状で仕事ができなく、その為に四国へ帰る旨の話をすると、その日の会は私だけの為に不潔恐怖のみを取り上げて話をしてくれた。
 約20人程の出席者は自分の悩みをかかえていたであろうが誰もなにも言わずに話を聞いてくれた。
 当時仲良くしていた仲間から休憩時間に「山下さん四国へ帰るんですか? また手紙かきますよ」と言ってくれ、家内は「今は不潔恐怖ですが、四国へ帰れば対人恐怖が出てくると思います」と言っていた。私は不潔恐怖さえなければと思っていたが、家内のこの言葉は当たっていた。
 神経症は性格の陶冶ができなければ、一つの症状が治っても次から次へと際限なく続くという。しかし、当時の私はそんな事は頭になかった。不潔恐怖の苦しみから逃れる事しか考えてなく、これさえなければ、とそれしか考えていなかった。
 四国へ帰れば不潔恐怖から逃れられる、そうすれば楽になれる。それしか考えていなかったのだ。それでも住めば都とはよく言ったもので4年も暮らせばこの土地に未練も残る。跡取りでなく神経症(不潔恐怖)にならなければ一生この地で暮らしてもいいくらい生活するのには非常にいい所であった。
 近所の人間関係も何のトラブルもなく朝会社へ行く時には「行ってらっしゃい」帰ってくると「お帰りなさい」と言うてくる。近所の人がこんな事 言うてくるのは田舎ではまずなかった。箱庭のように都会と田舎が一体となったようで、両方の生活を味わえる。
 横浜東京へはすぐ行ける。幼稚園だった息子の手を引いて、中華街、山下公園はよく遊びに行った(息子は覚えてないだろうが、なつかしく思い出している)
 浦賀の町を一山越えれば茅葺き屋根の農家があり、谷あいの田んぼで稲を作っており、山、川、海と自然に不自由せずに町の生活が味わえる。子供と歩いていると見ず知らずの人がニコニコして声かけてくれるし息子が転んでケガをしているとカットバンを貼ってくれたりしていい人だなと思えた。関東は東北からの人が多いからだと聞いた。ただ、小学生だった娘が防空頭巾を持たされるので聞くと地震が多いからと言われて、戦後間もない頃の私を思い出したり、神経症にならなければ、いい生活だったなと回想している。

執筆 :(T.Y)