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体験記 (66)

 東京駅を出発しても、新幹線の中で、気分は沈んだままであった。昼過ぎやっと高徳線に乗り、(父はもう死んでいるのじゃないだろうか?)そういう不安で一杯であった。
 白鳥病院へ入院しているというので、病院へ直行する。(もう死んどるかも)という思いのまま部屋へ行くと、親戚の人が全員ベッドのまわりを囲んでいた。
 原因は脳出血で倒れていたらしく、仕事から帰った母が見つけて、救急車で運んできたとの事だった。
 ベッドの上で父は人工呼吸器で心臓を動かしており、皆が見守る中呼吸器の音だけが、父の生を確認できるものであった。私は眠ったままのような父をなす術もなくながめているだけであり、看護婦さんが、血圧を測りにくるのだけが、父の命がまだあるという証だった。その晩も一睡もせずに父を見守っていたが翌日の昼過ぎに、一度も目を開けることもなく息を引き取った。享年78歳であった。
 父が死んだ後、それまで何も言わなかった伯母さんが「子供や いらんいらん子供やおったって何になりゃ」と言われた。これは跡取りでありながら、家庭内のいざこざから逃げる為に両親を捨てて転勤してしまった私に対する皮肉である。人との感情的なトラブルが恐くてそういう事がおこったら誰か解決してくれと、人に助けを求めるばかりで、自分で処理することができずに転勤という形で逃げてしまったのである。
 私が転勤してから、父は母と二人だけの生活になり昼間母は仕事に行き、病弱な父は一人家にいて寂しかったのであろう。横須賀の家へは毎日のように葉書が届いていた。(夜勤はしないように体に気を付けて、サラ金では金を借りるなよ)等々をこまごまと書かれていた。寂しさのあまり毎日葉書を書いてポストに入れていたのではと推察できる。父は酒だけしか楽しみがなく、その日も酒を飲もうとしていたのだろう。台所で一升瓶を握ったまま倒れていたとの事であった。
 私が転勤せずに家族がいたならば、早く見つけて助けられたかも知れなかったと後悔するのである。
 もしそうだったら私が父を殺したようにならないか?そう考えて伯母さんの言った言葉が胸に突き刺さるのである。今回の転勤は人員整理の為であるので四国へ帰るには会社を辞めなければならない。
 辞めて帰った方がいいだろうか、家族のいざこざから逃げる為に転勤して結果として職を失うのであれば、何の為に転勤したのか、いろいろに悩んだ。
 生まれ育った故郷に対する愛着と横須賀へ行くことをためらい、1週間も会社を休んでしまった。

執筆 :(T.Y)