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体験記 (37-40)

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 鳥のこと以外にも父はいろいろなたとえ話を私にしてくれた。いくつかの例を述べたい。清濁を併せ呑むと言う。これは、川の本流に澄み切ったきれいな水が流れている。そこへ支流から濁った水が流れ込んでくると、本流の水は少し濁って支流の水は少しきれいになってまざり合って流れていくんだ、本流の水は支流の水を濁っているからといって寄せ付けないようなことはしないんだよ。また、水清ければ魚棲まずと言って、あんまりきれいな水には魚は寄ってこんのだよ、あまりにもきれいな水は、敵に見付かり易いから、少し濁った所を好むんだ。人間もあまりに潔癖な人の所へは人が近寄りにくいだぞ。また地獄の亡者はガリガリにやせている。食わしてくれないのかと思ったら、そうじゃない、ごちそうを一杯食わしてくれる。ただ箸が非常に長い。その箸で自分が食べようとばかりするので、箸が長すぎて食べ物が口にとどかないのだ。極楽はどうかとみると地獄と同じように箸が長い。極楽の人は自分が食べようとしない。その長い箸で相手に食べさしてやる。相手は同じように自分に食べさしてくれる。従って極楽では長い箸でも腹一杯食べられるのだ。その他たとえ話になぞらえた形でいろいろ話をしてくれたが、何を言わんとしたのか考えようによっては、私の性格に対しての忠告だったのかとも思えるのだが。当時私も若かったので、父のこの言葉も、聞き流していたが、何回も聞かされたので、内容は覚えてしまった。それでも、人から何か言われたり、無愛想な態度を取られたりすると何を怒っているんだろう。何か嫌われるようなことしたのだろうか、そんなふうに考えてクヨクヨと悩む生活は変わらなかった。軽い冗談にも、私に対する嫌がらせのように思えてムキになっていた。私に関係のない冗談には笑っておれるが、私の事を言われるとムキになって怒るので、相手も話がしにくかったろうと思う。人の顔色ばかりみて、人が自分をどう思っているかを気にするのは裏を返せば、すべての人から良く思われ好かれたい心であるということには思い到らなかった。
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 会社では自転車のチューブを受け入れる仕事をしていたが、前工程の係長は、物の言い方がケンカ腰なので、彼に呼ばれると(また何か文句言われる)そういう考えが頭にインプットされているので、この男が嫌で仕方がなかった。「山下ちょっと来い」と語気するどく怒鳴りつけられると、もうビビってしまい、何も言えなくなる。そんな時、自分が彼と交渉して問題を解決するようなことはできなかった。
 そういう力もなければ勇気もなかった。何も言えずに黙って言われっ放しで、クヨクヨ悩んで、そのことを私の上司に相談して、解決してもらうのであった。
 上司も私の性格を知っているから、「そのぐらい自分でやれ」とは言わず、すぐに彼と交渉して処理してくれた。山下はすぐ気にして悩むタイプだからと、助けてくれるのだろうが、結果として困ったことがあるとすぐ人をたよって助けてもらうくせがついてしまっていた。
 神経質者は幼稚なのだと聞いたが、会社では上司に家では親に甘えて、困ったこと嫌なことは、すべて身近な人にたよってしまうのであった。当時は自分がそういう幼稚な性格だとは分からず困難なことから逃げることばかり考えていたのである。
 要は家庭で会社でずいぶん甘やかされていたのである。家庭では何をしても、またどんな失敗をしても許してくれた。特に母からは溺愛されて育った。何をしても、すべて認めてくれた。その為に自分の思うことは何でも通してしまう我が儘な人間になって行ったようだ(当時は自分がそんな人間とは認識していなかったが) 会社では「恒雄さんは、ちょっとした事を気にして悩むから,他の人には10言うことでも、あんたには5か4しか言わんのだよ」と言われていた。
 職場の仲間はずいぶん気を使っていたみたいである。それも一緒に仕事をしている仲間だけで、他部門の人々は私のそんな傾向は知らないので、言いたい事をズケズケ言うてくるし、場合によっては怒鳴りつけてくるので、それを私を嫌って腹が立つからと受け取って、その人に会うのが恐いのであった。
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 会社へ行って挨拶しても返事がなかった時あるいは無愛想な返事だった時すぐ頭に浮かぶのは、何を怒っているのだろう、何か気に障るようなことをしたのだろうか? あゝだろうか? こうだろうか? といろいろ考えて悩むのである。そして会社へ行ってその人に会うのが恐くて、家にいても、その事ばかり考えてゆううつになる生活であった。
 要は自分に関係する人々すべての人から良く思われたい嫌われたくないという気持ちだということは当時は全く考えてなく周囲の人々の言動を悪い方ばかり考えて、相手が怒っている、嫌っているとばかり思って悩んでいた。神戸からきた岡さんは「皆自分のことで精一杯じゃ、いつまでもお前のことばかり考えとらんぞ」と言われたが、頑固な私はいつまでも自分の考えを変えなかった。岡さんから「山下、お前は今、青春の真っただ中やないか」と言われたが、20歳代の人生で一番いい時を自分で自分の青春を灰色に塗りつぶしてしまったのである。
 そんな折、父が体調をくずして白鳥病院へ入院した。父は「20年ぶりの入院じゃ」と言ってベッドの上に上がった。
 20年前の父は胃潰瘍を患い胃壁の穴が開いてしまったのだが、今回も、レントゲンを見せてもらうと胃に穴が開く寸前であった。餅を焼いた時にプクーとふくれてさけるが父の胃は、そのさける寸前だという。しかもそこにガンができている。潰瘍性のガンで手遅れですと言われた。
 父にはこのことはふれずに家へ帰って(父を殺してしまう)そう考えて畳の上でポロポロと涙がこぼれた。
 病院からは「ここで手術をします」と言われたが不安で仕方なく大川病院(現さぬき市民病院)へ転院した。しかし母は、どうすればいいかを決められなかった。私に「恒雄あの人に聞いてきてくれ」翌日には「この人に聞いてきてくれ」それが毎日続いた。そんなもの誰に何回聞いた所で、ここへ行けば治りますと言える人はいない。結局母は人にたよるばかりで自分で決めて処理することはできなかった。これはそのまま私にも適用される。困ったことがおこると、すべて人に相談して解決してもらうばかりの生活であった。母が右往左往しているのをみて父が「もうここで手術を受けるから、何かあっても、やっていけるだろうが、ここは景色もいいし、空気もきれいだから、ここに決めるから、もうそんなに迷うな」と言って母に手を合わせていた。
 これを見た時、父は自分の死を覚悟したのではないだろうかと思ったのである。
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 母はおろおろするばかりで何もできなかった。私も母に同調して母の言う通りに ある人に聞き この人に相談するばかりで自分でこうすると決めることはできなかった。
 優柔不断で全く頼りない親子であった。結局父は自分の運命を自分で決めたのである。
 婦長さんから「ここの先生は内臓外科で上手ですから」と言われて少し安心した。
 手術が終わって先生に呼ばれて中に入って行き説明を聞いて、ただの胃潰瘍であって、ガンではなかったのでホッとしたのである。
 2回も潰瘍の手術を受けて父は潰瘍になり易い体質だったのだろう。悩みに悩んで迷いに迷っていろんな人に相談して、何の役にもたたず、結局父が自分で決めて、死を覚悟したであろう父は結果として命拾いをしたのだが、困難に直面して何の役にも立たない母と私のたよりなさを思い知らされたのである。
 父が入院して以来、母は父の元につきっきりであったので、その間、私は母の実家へ身を寄せて会社へ通い仕事が終われば病院へ行き、夜は伯父の家で寝る生活であった。
 毎日毎日そんな生活をしていたが、いくら母の実家であって親戚ではあるが、客として遊びに行くのと居候として行くのとは、向こうは何も言わないが何か態度が違うなと感じだした。(私の関係妄想かも知れないが)
 客として遊びにいったのであればいいが、居候として生活するのであれば、少しは気を使ってその家の仕事でも手伝えばよかったかも知れないが、当時は全くそのような考えは浮かばなく、お客さんのようにしていたのである。
 これは私が子供の時から人を避けて、花ばかり育てて自分一人の生活をして、人との付き合いをしていないから人との接し方を知らなかった故であったろうと今になって思うのである。

執筆 :(T.Y)