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体験記 (31)

 大型連休の最後は必ず淋しさにふるえるのだが仕事に行き出したら、またいつもの生活にもどれるのである。
 そんな折、会社から、名古屋工場へ応援に行くよう指示がきた。当時は四国工場で人が余っていた為、忙しい名古屋へ応援に行って調整をしていた。同じ人間がずっと行くのでなく、公平にする為に2ケ月毎に交代するのであった(会社としては運賃等に余分に金がかかるが)。私は7月8月と一番暑い時であった。
 一人で行くのではなく毎回必ず数人で行くのであるが、私としては生まれて初めての親元を離れて生活するようになった。
 会社では大人しいと人から言われていたので、当時の課長が「よう寝るだろうか?」と心配したらしい。そこまで子供ではないが、会社の人達からは山下は一人では何もできん幼稚な男という目でみられていたと思う。会社では言われたこともしなかったから。そして人から何を言われても、たとえそれが自分にとって不快だったとしても即妙に言い返すこともできずに、言われっ放しで黙っているものだから、人からは頼りない男と見られていた。従ってそう思われるのも止むを得なかったと思う。
 名古屋工場は三ツ星の会社で一番広い工場であった。私はコンベアーを作る現場に配属された。四国では出来上がった製品だけを受け取り保管出荷の業務だったが、名古屋工場ではベルトを作らなければならなかった。2ヶ月の応援なので知識的な教育を受ける時間などなく即現場へ回された。
 四国での現場は一人ずつそれぞれが自分の機械を使う個人作業だが名古屋は流れ作業なので私の一番嫌な共同作業だった。
 一応自分がやらなければならないポストの説明は受けるのだが、知識と技術を習得していないので流れについて行けない。間に会わないので機械を止める。流れ作業なのでそのライン全員の作業が止まってしまうのである。すると向こうの方から「こらー何しよんじゃー」と罵声が飛んでくる。嫌で仕方がなかった。彼等はその時だけで、仕事が終れば何事もなかったようにケロッとしているのをみるとその場限りのことで、後々尾を引くものではなかったのだろうが、当時は(怒られた、もう嫌われた)と考えてビクビクしていたのである。名古屋工場は私が入社して2〜3年後ぐらいに会社が土地を買い上げて操業しだした歴史の浅い工場であり、社員は、九州の炭鉱出身者が多かったとのことだった。九州という所はそういう特質のある所かも知れない。しかしいくらあっさりしていても口の荒いのには辟易した。

執筆 :(T.Y)