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体験記 (5)

 今まで述べたように家の中のもめごとで親族会議を開いたのは何回もにわたって行われた。事ある度に父は近所の人に来てもらって仲へ入ってもらって話し合うが、母も父も義兄も自分の言いたいことを言い合うだけで何の解決にもならなかった。親戚の人を呼んでも同じことのくり返しで何の進展もなく、ついに伯父が「何回も何回も呼びつけて三日に上げずケンカばかりしていい加減にせー」と父に怒鳴りつけているのを聞いた。
 母はいつも義兄のことを出してきて「私のやることが気に入らんから、あーする、こうする。」と言い、父は「そんなことあるか。勲(義兄の名前)も言うな、黙っとけ」と言うばかりで、皆が寄って言い合いをするだけであった。子供だった私は何も分からず、母には特に可愛がられたので、どうしても母の方へ気持ちが傾いていったようである。父にはどうしても反発するようになっていった。しかし今この年になって思うに母の神経質で、すべてにおいて悪い方へ悪い方へと考えていく所謂 被害念慮もかなりなウェイトを占めていたのではないかとも思うのだが、当時の私にはそんなことは全く分からず、ただ父と義兄に反感を持つようになつていった。反面、義兄の精神的な病気もある程度は関与していたと思うが、当時の私には義兄にそういう病気があるとは全く分からず反抗的になっていた。
 そういう家庭環境で育った為かどうかは知らないが、子供の時の私は、外では苛められても何も言えずに人のいいなりになっているくせに家の中ではずいぶんと わがままな性格として育って行ったようです。
 当時は自分のわがままだとは知らずに、唯好き勝手に行動していたと思う。自分がカッとなれば その気分のままに態度に出して、家族に当たっていたのであった。理由は忘れたが何か気に入らんことがあったのであろう。「この家を焼いてやる」と言って新聞に火をつけて、ねずみ入らずにに放り込んだりしたのを覚えている。もちろん本気ではなかったので親の前でやるのである。親が消してくれるということは計算済みではあった。自分の気に入らないことがあると腹を立てて、その気分のままに行動していたようです。妹とは1年間 物言わなかったことがある。私は物言わなかったのは覚えているが、そうなった経緯は忘れてしまっていた。しかし妹は覚えており最近になってそれを言われた。妹が出かける時に私が帰りに切手を買ってきてくれとたのんだ。妹は切手を買うのを忘れて帰ったという。それを怒って私が物言わんようになったとのことらしい。
 月日が経つと怒りはおさまってはきたが、きっかけがないので物言わぬまま、ずっとすごしていた。そうとうな意地っ張りであり、今でもその傾向は持っており、人間関係を悪くしているのである。
 このように家ではわがまま一杯にふるまっていたが外へ出て他人の中へ入ると、人の顔色ばかりみて、苛められる、嫌われる、仲間はずれにされるということばかり思って、非常に臆病な人間になり、人中へ行くのを苦にするようなっていった。後年に森田療法を知って、(本心は人から好かれたく仲良くしたい心の表れと知った。そしてその心が強ければ強い程、人の自分に対する思惑が気になるのだとあった。)しかし子供の私は自分はどうしてこんなに人に嫌われて苛められるのかとそればかり気にして、段々と外へ出なくなっていった。
 当時から外では大人しかった為に苛め易かったのもあるだろう。言い返すこともせずに言われるままにこらえているので、相手としては私に対して恨み憎しみがあるのではないのだろう、唯苛め易いのであっただけだろうが私には嫌われているように思えて人中へ行くのが恐くなっていたようである。その反動か、あるいは度重なる家の中でのケンカに対する反感の為かは知らないが、家の中では暴君的にふるまっていたと思う。従って外では、自分に意地悪をしない一部の人または女の子と遊ぶようになっていった。おじゃみ(お手玉)、ゴム飛び、おはじき、そんなことをして遊んでいた。それでも勝気な女からはにげていたようである。
 要は、外では人から自分がどう思われているかばかり考えてビクビクした生活であった。(こういう考えは大人になっても、ずっと続き人生のほとんどをこういう生活で過ごしてしまった)そんな子供だったから、段々と家から外へ出ないようになつていた。そういう生活の中で目にふれたのが、祖母が仏壇に祭る為に門先の畑に花を植えているのが目につき、その一部をもらって自分で育ててみた。自分で苗を植え、水をやり大きくなって花が咲いた。自分が育てた苗が大きくなって花が咲いたのを見て嬉しくなり、それから次々と、いろんな花を作るようになり、この年まで趣味として続くことになった始まりである。

執筆 :(T.Y)