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体験記

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 このようにして子供時代から死の恐怖におののいてきたが、永遠に生き続けたいという絶対不可能な願いを今でも持っている。
 唯、子供の時のような気が狂ったような状態にはならないものの、60半ばをすぎたが 何れは必ずやってくる死に対する恐怖は生涯続くものと思う。
 後年 森田療法を知り森田先生も少年の時、寺で地獄絵を見て死の恐怖に苦しむようになったと聞いた。森田先生も神経質の性格を持っており心身医学を学ぶ内に神経症の心のカラクリを発見したとのことだったが、死の恐怖に打ち勝つ努力をしたが恐怖はなくならず死は恐れざるを得ないものであるという結論に達したとのことであった。私も恐怖のままに死んでいくものと思う。
 もちろん私の子供の時の家族も今は私と妹だけになってしまった。
 この死の恐怖と時を同じくして学校での苛めを体験することにより人が自分をどう見ているかということにとらわれ、自分の人生のほとんどを死の恐怖と人の思惑に支配されることとなった。
 当時、学校へは、番屋川と呼ばれる川ぞえの土手を子供の足で片道1時間かかって通学していたが、その帰り道に何人かと連れだって帰っていたのだが、私一人が苛められた。苛めの内容は今は覚えていないが「い組の恥じゃ」と言われたのだけは、はっきり覚えている(丹生小学校はクラスを、い組、ろ組という風に分けていて私は、い組だった)泣き乍ら家へ帰った私を見て母が心配して問いただし私が苛められたことを告げると、母がその子の家へ行き、先方の親に話しをしたらしい。翌日学校へ行くと「親に言うただろう」と言ってまた苛められた。気が弱くて言い返すこともできない私は苛められるままにだまってがまんするだけの生活が始まった。苛めっ子というのか、がき大将というのは何人かいて私が大人しく何も反発しないのを知った他の者までが、いろいろないたずらをしてくるようになってきた。それに対して私は何も言えず ただ黙って がまんするだけだった。それでも打ち拉がれてしまうことはなく学校へ行くのが嫌だなという思いはあり乍らもすべての者から苛められるのではないので、苛めない他の人たちと遊んだりしていたが、それでも度重なる苛めにたえられずに2〜3日続けて学校を休んだことがあった。
 先生が心配して家へ来てくれたので学校で苛められることを訴えたが先生は「そんな風にみえるんだろう」と言って私の訴えを取り合ってくれなかった。そして私の親には「上から押さえつけてしまっているから、もう少し伸び伸びと育ててやってほしい」と言われたということを後年親から聞いた。
 私の神経質の性格と幼少時における家庭の中での度重なるケンカが人間関係の感情的なトラブルに対して非常に臆病な人間になっていったもののように考えるのである。そしてこの考え方は対人恐怖という神経症となって、私の人生を苦しみの世界へと変えて行ったようである。
 今でも私は身近な人の私への言動が私を嫌って苛めてくるという感情がぬぐい去れないでいるのである。

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 このようにして始まった、学校での苛めから段々と自分は人に嫌われている人間という考えが固定化して行くようになり人中へ行くと口数が少なくなり何に対しても消極的になり、人のいいなりになって行くようになって行った。
 加えて家庭の中でのトラブルは、相変わらず続いており、ケンカが始まると父はすぐに近所のおじさんを呼ぶ「何々さんちょっと来てくれ 困ったことがおきたんじゃ、来てくれるか」と言って呼ぶのであった。近所のおじさんは近所のことだし頼まれて知らん顔をする訳にも行かないのだろう。来てくれて、父母義兄の言い争いを聞いてはくれたがそんなことをしても何の解決にもならず、お互い言いたいことを言ってその場は気がおさまったみたいだが、日が立つとまたガタガタ言い出しケンカになると父はまたすぐに近所のおじさんを呼ぶ。おじさんもその都度来てはくれたが、事ある毎に呼び出されては近所のおじさんもいい加減迷惑していたと思うし家の中の恥を近所にさらけ出しているだけだったろう。ケンカの内容は義兄と母とのことがほとんどであった。父母と義兄の言い合いを聞いた近所のおじさんは「この家は他人が一緒にいるみたいやな」と言われたのを今でも覚えている。
 母と義兄とが相手を責め合うばかりだったからそれを聞いて近所のおじさんは家庭的な家ではないとみたのだろう。今思うに母の神経質の特徴と義兄の性格と、まま子、まま母という関係も関与していたかも。それだけではなく、父は何回となく親族会議を開いて、その席に子供であった私も その都度出席させられて親戚同士が議論するのをいつも聞かされていた。
 私もその為かどうかは知らないが、家の中では反抗的になって何かにつけて親に(特に父に)当たっていた。親族会議で父が「恒雄がオラを殺してやる言うんじゃ」と言うと伯父が「それはお前に反抗しよんじゃ」と言っていた。
 私のいとこに則義という男がいるが、時々私の内へ遊びに来て泊まって行くことがあった。日曜日に一緒に遊び乍らビワの実を食べた所、親族会議で父が「則義がビワを食うてしもたわ」と言った。それを聞いた伯父は二度と則義を私の家へ遊びによこすことはなかった。父のあのような発言はたしかに間違っているが、それを根に持っていうかこだわって、かたくなに態度を変えない伯父の態度はそのまま今の私の心に遺伝していると思う。私の人との折り合いが悪くなり苦しむのはそこに原因があると思うのだが、持って生まれた性格はどうしようもないように思う。 
 自分の息子が食べたことを言われた伯父の気持ちは私には充分に理解できるのである。私の父は、私のように人から嫌われのけ者にされるという恐怖はなかったみたいだ。

執筆 :(T.Y)