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におい

(福家 啓) 

 「何も変なにおいなんかしてませんよ。それは気のせいです、あなたの単なる思い過ごしですよ」
 その内科医は、最初しばらくキツネにつままれたような、合点のいかない表情をしていたが、やがてその意味が理解できたのか、ゆっくりと、そしてはっきりと、診断を下してくれた。
 きっぱりと語りかけてくる医師の言葉に、素直に「はい」とうなずきながらも、なぜか釈然としない、すっきりとしない思いを、抱かずにはいられなかった。
 四月に専門学校に入学してから、周囲の人たちの鼻をすする音や咳払い、くしゃみなどが耳について離れなくなった。
 何か自分の身体から変なにおいがしているのだろうかと、あれこれと訝るのだが、どうにもその原因がつかめない。試しに毎日風呂に入って身体を清めるのだが、状況は変わらない。何より周囲の人たちに迷惑をかけているような気がして、どうにも心苦しかった。
 一カ月ほど、アパートにひきこもり、悶々としていたのだが、せっかく専門学絞に入学したのに、自らの志す勉強ができないのがつらかった。そこで今回、総合病院を受診し、自らのにおいの原因を突き止めようと思い立ったのだった。
 内科の医師の納得のいかない診断に落胆しながらも、「どうも、ありがとうございました」と頭を下げて、診察室を出た。ひどく長い時間にも思われたが、三分くらいしか経っていないのではないだろうか? でもこれでは何の解決にもつながらない。(医師の見立てが悪いのではないか?)
 においの正体をどうしても突き止めたいとの焦りから、内科の診察が終わってからも、それこそその総合病院の各科をはしごするような勢いで、次々と診察を受けた。
 単に体臭だろうか? それとも口臭だろうか?
 お尻のうんこの残り香だろうか?
 歯科、耳鼻咽喉科、肛門科、皮膚科、精神的なものが原因しているという考えには結局いたらず、精神科だけは受診しなかったのだが、どの科で診てもらおうとも、最初の内科で説明してもらったような、月並みな診断しか与えてもらえなかった。
 結局、自らのにおいの正体は、病院でもわからなかった。それが妄想なのか現実なのかさえわからなかった。
 総合病院を出ると、オレンジ色をした太陽がはや西に傾きかけている。結局丸一日を費やしたわけだが、すべて徒労だったという思いが、疲労感をさらに増した。
 歩道を歩くのにも、周囲に気を配らなければならない。雑多な音が気にならないようになるべく人通りの少ない道を選んだ。小さくなって歩いていると、歩道にせりだすようにして中華料理の赤いちょうちんがぶらさがっているのが、目に入ってきた。
 それを目にした瞬間、朝から何も食べていないことに気づいた。そして急に空腹を覚えた。その空腹を正に見透かしたように、前方で赤いちょうちんが揺れていたのだ。
 あまり人のなかに入っていくのは気が進まなかったが、やはり空腹という生理欲求にはかなわない。赤いちょうちんに吸い寄せられるように、ガラガラガラッと戸を開けて、なかに入った。
 テーブル席で、自分と同年輩くらいの若い男性のグループが飯を食っていた。そしてカウンターの席で、中年のサラリーマン風の男性客二人が、ギョーザか何かをあてにして、ビールを飲んでいる。「いらっしゃいませ! どうぞ」
 入っていくなり、中年の女性店員の大声に迎えられたが、あまり他人の近くに寄りつきたくない自分としては、他の客から一番遠ざかっているカウンターの一番奥に席をみつけて、腰かけた。「お客さん、何にしましょう?」
 大声で迎えてくれた女性とは別の若い女性が注文を取りにきた。顔つきがあまりにもよく似ているので、この店は家族で営んでいるのではないかと、ふと思った。「チャーハンと、ギョーザを二人前、お願いします」 
 しばらくメニューをながめてから、おもむろに注文した。
 折からの空腹を満たすため、思いっきり食べてやろうと、思った。食べることに期待を寄せているためか、周囲の雑音もあまり気にならなかった。
 店内の隅っこに置かれた小さなTVで、阪神・巨人戦が放映されていた。まだ試合が始まったばかりだったが、ちょうどタイミングよく、阪神の外国人選手が満塁ホームランを打った。「やったでえ、さすが、タイガースやで!」
 阪神ファンなのか、カウンターに腰かけたサラリーマン風の一人が、歓声を上げた。「ほんまやなあ、今年のタイガース、調子ええなあ」            、
 これまた阪神ファンなのか、もう一人の男が横で相づちを打っている。
 仲の良さそうな二人をながめながら、えも言われぬ羨望の思いがこみ上げてきた。今の自分には友と呼べる、いや、話し相手と呼べる相手すら、いなかった。自ずと孤独感を感じずにはいられない。においの悩みが、自然に成長を妨げているのではないかと、思った。「はい、お待たせしました!」
 間もなく、チャーハンと二人前のギョーザが運ばれてきた。
 出来立てのにおいが、鼻孔を刺激する。それだけで食欲をそそる。さっそくチャーハンをかきこむ。次に、ギョーザをロに持っていく。しばらく思考を停止させて、食べることに専念したかった。食べるほどに、空腹が満たされていくのがわかる。最後のスープを飲みおえるやいなや、間髪をいれず、すぐに勘定を支払って、店を出た。「ありがとうございましたあ!」
 背後で、若い女性の大声が響くのが聞こえた。
 すでに日は募れ、あたりは薄暮に包まれていた。五月に入ったとはいえ、夜気はまだ冷え冷えとしている。おもむろにGジャンのえりを立てずにはいられない。
 人通りの少ない歩道を、春の制服に身を包んだ女子高生が二人、楽しそうにおしゃべりをしながら通りすぎた。何の屈託もないその無垢な風景に、思わず微笑をもらさずにはいられない。
 高校生のころは遊び仲間が何人もいた。毎日飽きることもなく、くだらない話に興じ、時間が経つのも忘れ、遊びまわった。ほんの少し前のことなのに、ずいぶんなつかしく思い出される。「今からでも遅くはない、明日から学校へ通ってみようか?」
 思いもよらない考えが、突然脳裏をよぎった。
 女子高生が通りすぎてから、一人の男がこちらに向かって歩いてくる。「ゴホン、ゴホン、ゴホン!」
 そして横を通りすぎざまへ右手を口に当てて、大きな咳を三つして、通りすぎた。(そうや、すべてこの音が悪いんや!)ほんの一瞬前の思考とは打って変わって、あたかも自分が、周囲から迫害を受けているような気分を感じた。
 すぐにその男のあとを追いかけて、その前に立ちはだかった。長髪にした若い遊び人風の男だった。「何のにおいですか?一体何のにおいがしているんですか? 教えてください」
 男のジャケットのえりを握りしめて、せきたてるように、叫んだ。「何を訳のわからんことを言うとるんじゃい、このボケ!」
 何が起こったのか合点がいかず、一瞬呆然としていた男が、次の瞬間、逆にこちらの服をつかんで、歩道に引き倒した。
 男に引き倒されて、背中から勢いよく歩道に倒れこんだこちらの顔面を目がけて、男はさらに畳みかけるように、右足を蹴りこんできた。一瞬、口のなか一杯に、何やらきな臭い昧が広がった。
 しばらく立ち上がることができなかった。しばらく街の風景が逆さまに見えていた。向こうを、遊び人風の男がぶつぶつ、ぶつぶつと何やら悪態をつきながら歩いていくのが見えた。「キャー」
 同時に、突然の物騒な物音を耳にして、二人連れの女子高生が、大声を上げながら、走り去っていくのも、見えた。
 ほんの少し前、抱いていた甘い夢想が、ガラガラガラッと音をたてんばかりに崩壊していくのがわかった。
 どれくらい歩道で倒れていたのだろうか?
 ずいぶん長い時間に思われたが、実際には刹那の出来事にちがいなかった。よろよろと立ち上がると、服のほこりをパンパンと両手ではたいて、落とした。
 どこへ行くという当てもなく、ふらふらと歩道を歩いた。前方に清涼飲料水の自動販売機が見えた。急にのどの渇きを覚え、ポケットから硬貨を取り出して、自動販売機の中に入れた。コーラのボタンを押すと、ガラガラガラーンと、コーラが勢いよく落ちてきた。
 自動販売機のまえに立ちつくし、コーラをひと息に飲んだ。「なぜ、こんなことになってしまうのだろうか?」
 自動販売機をまえにして、一人ぽつりとつぶやいた。
 口のなかを怪我したのか、コーラの水分が口内の傷にしみた。コーラの昧のなかに血の昧が混じっているのが、わかった。
 

四国新聞読者文芸より転写

(社)香川県断酒会の会員さんの投稿文です。