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「回復途中の人間関係について」

T.T
「心の傷をうけた人は、自分の傷を回復させる責任がある」といわれています。
 傷を抱えていると、その影響(傷のいたみから逃れようとしたり、まぎらわせようとする自己流の治療)で、自分の中に、いろんな問題(嗜癖行動、不適応)を抱えることになるので、「生きづらい、生きるのが苦しい」となり、「楽になりたい、回復したい」と願うのは、やまやまなのですが。
 その先の道筋は人それぞれ各人に選択がまかされています。そこで問題だと思うのは、まわりに「自分の重たさ」を発していて、その問題を抱えた人に会った人が、会った後に、「つかれる、なんか嫌なものが残る」ことです。
 自助グループでは時たま、「重たい話」を聞いて「重たかった」と感じますが、嫌な体験となることはありません。それよりも私は、普通の関わりの中で「問題を抱えた人から受け取ってしまう「ネガティブなもの」の深刻さを感じています。
 問題を抱えた人が周りにそれを発しないようにするには極論すれば「回復をすすめる」しかないのでしょう。無自覚にネガティブさを周囲にまき散らしている人からの防御法は今模索中です。
 ともかく私たちは、生身徒手空拳で勇気をもって向わねばならないし、「回りに迷惑」だから「傷をうけた人」は回復の責任を負います。その場しのぎの「対処法」なら「回りに迷惑」にならないためには、自分を他者に露出させないようにして、他者との関わりを避ければいい。「ひきこもり」はその意味では、とても他人に配慮しているんですね。ただ人と関わらないままでは、自分も変わらない。回復をすすめられない。もっとも、「ひきこもり」には「人と会わない」から自分が楽な面もあります。ヤマアラシの棘のように「自分が他人を刺す罪悪感を感じたくない」もあれば、「他人から自分が刺されて痛い思いをしたくない」もあるでしょう。回復したければ、他者と関わらなければなりません。
 しかし「他者と関わる」は、きれいごとでなく自分を他人にさらけだすことなので、程度の差はあっても「傷つけ、傷つく」ことは避けられないと思います。
 私の経験からいって。「バカヤロー」と思う時があっても、あとから、その人との関わりをトータルしたら「やっぱり関わってよかった。」だと続いてゆくんだと思います。
「人との関わりで傷ついた」人が回復のために人と関わろうとしてまた「傷つく」。ずっと残るダメージ、ストレスはあります。しかしダメージにならない程度の適度のストレス、トレーニング、課題を与えられないと、人は成長できないのかもしれません。毒をうけた人を治すのに小毒をつかう。そうやって免疫力を高めてゆく。
「その人が超えられない困難を神は与えない」とえらい人は言っています。
 まったく自分の問題と向き合わないのも、自分を守る方法ですが、向き合っても、どうしていいかわからない時もある。向き合っていて困難、混乱の中にいても、私は向き合っている人、回復したいという願いを持ち続けている人、回復できると信じ続けている人、そんな人を尊敬しています。私が「自助グループ」で出会っている仲間は、そんな人たちです。自分の心の基本の中で「人を信じない」か「人を信じている」か。これ、人間の発達過程ですが、私はやっぱり人を信じて生きてゆきたいです。人は変わる。その人が変わりたいと願うならば。そう思っています。

2006.12.17  T・T


  機能不全家庭で育った人は無自覚に自分も相手もわからないまま、相手の境界線を侵害して侵入し、コントロールしていて、加害者になってしまい、後から相手に「いやーな印象」が残って気づく、ということを起こしやすいです。
 自他境界の線引きのあいまいさ、自他境界を明確に作る練習をしていない。そういう危険性を持っていると思います。