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「甘え」(土居)に学ぶ

最近、「甘え」理論で著名な土居健郎さんの選集が発刊されています。第一回配本は『「甘え」理論の展開』で「甘え」に関する土居さんのこれまでの考えを詳しく知ることができます。少し難しいと思われる方もあるかと思いますが、日本語を大切にした丁寧な文章に触れるだけでも意義があるとカバンに持ち歩いています。

『「甘え」と「妬み」』から
 「甘え」や「妬み」は喜怒哀楽のように人間感情の一種と考えられるが、おそらくこの二つは「恐れ」や「怒り」などとともに人間感情の中でも最も基本的な部類に入るのではないかと思われる。(中略)ここではそれが人間関係の指標であるという立場に立って論ずることにしよう。すなわち感情は、それがそこで起きている人間関係がいかなる状態にあるかを示すと考えられるのである。
 普通の親子の場合、子供は親に甘える。つまり甘えを媒介として子供は人間関係の中に入る。そして親に甘えられるので子どもは親にしたがう。もっともいつも子どもの思うまま甘えられるわけではない。そこで甘えられない分だけ自分勝手に振舞おうとする。それが子どものわがままといわれるものの本質である。通常、全く甘えない子どもはいないように、多少ともわがままをいわない子どももいない。そして甘えたりわがままをいったりしながら、子どもは次第に成長し、最初は家族の一員、ついで学校という社会に組み込まれ、やがては成人して広い社会の中で独り立ちするようになるのである。
 以上は普通の平均的な子どもの場合であるが、もし親の側で子どもの甘えを全然受けつけないとしたらどうなるだろう。昨今わが国でもようやく問題になり始めた児童虐待の現象は実はこのことと関係がある。そしてあからさまな児童虐待に至らないまでも、いたずらに子どもの自立を促すのみで、子どもの気持ちを全然理解できない親の数がふえているように観察される。(中略)甘えの真空状態の中で起きる極端なわがままと妬みが、最近話題になることが多い。子ども同士の激しいいじめや、またその犯罪行為の背後に潜んでいるように考えられるのである。
 「甘やかす」ことがいけないのは、それによって起きる甘えが自然の甘えではないからである。甘える側は自分の甘えが相手を喜ばすことを知っている。いわば甘えてみせるわけである。甘えるのは非言語的非反省的であるどころか甘えとわかってやっているのだから、一種の演技であるといってよい。言い換えれば本物ではないのだ。では一体誰のための演技か。もちろん甘やかす者のためである。であるから甘えてもそこに本当の満足はない。ここで面白いのは甘やかす側もそうするのは相手を喜ばすためだと普通は思っていることである。 少なくとも意識的にはそうである。そしてそれが実は自分自身の内心の満足のためであることはわかっていない。言い換えれば、ここには一種の偽りがある。実際、甘やかすほうこそ甘えているといって過言でないのではなかろうか。無意識なのだから本人はそれを自覚していないし、その点は自然の甘えと同じく非言語的非反省的である。しかし違うのは、もし仮に甘えているのはあなたの方だと言われたらそう言われた者は激しくそれを否定することである。これに反して自然の甘えの場合は自分のやっていることが甘えであると言われても決して反対することはないものである。
 人間の正常な発達のためには幼児に本当の甘えを経験することが必要であると思われる。すなわち初めは非言語的非反省的に甘えるが、後にはそれが「甘える」といわれるものであることが理解できるようにならなければならない。それとともに、甘えていい場合と甘えていけない場合、あるいはあてにしていい場合といけない場合の違いを知るようになることが肝要である。これこそ分別といわれるものの基礎である。(中略)実際、この点での分別がきちんとできていれば、変に横車を押したり、相手の機嫌を取ると見えて結局は自分の利益をはかるというようなことはしないだろう。したがって子どもを甘やかす親たちや、もちろん生徒を甘やかす教師たちも、結局は子どもの時にこのような分別が身につかなかった人たちだろうと考えられるのである。

『親子関係の心理』から
 精神科医として診療に従事していると、親子関係の重要さを毎日ひしひしと感じさせられる。どんな精神障害でも、精神病といわれる場合でも神経症といわれる場合でも、親子関係が関係しないということはない。誤解がないようにいっておくが、親子関係が悪いから精神障害が起きるのだと必ずしもいうわけではない。しかし親子関係が陰に陽に関係していることだけは間違いないのである。
 私は家庭というものは、社会がどんなになろうと、どうしても守らなければならないものであろうと思う。そうしないと人類は滅亡してしまう。よく社会の変動に対して家庭は調子を合わせなければならないといわれることがあるが、私はそれに反対である。家庭はむしろ社会の変動が行き過ぎないためのブレーキとならなければならない。家庭は社会の変動に押し流されてしまってはいけないのである。家庭には夫婦と親子の関係があるわけだが、私はここで殊に親子関係の重要性を強調したいと思う。(中略)古い人間だと思われるかもしれいが、私はやはり親子の縁が夫婦の縁よりも深いと思っている。夫婦の縁は「異なもの味なもの」かもしれないが、深い方は親子の縁である。親子の縁がうまくいかないまま結婚した人間は夫婦の縁もうまくいかない。『こころ』の中の「先生」は身を以ってそれを証明しているといえる。
 日本にも「親の心子知らず」という諺がある。それでこそ子供は親を尊敬し親にしたがう。親の心が容易に見透かされるようでは、子供はつまらなくなって、なにか得体の知れないものに引かれて迷いだすのではなかろうか。そうなると「この心親知らず」という逆の現象が起きてしまう。それこそ現代の親子断絶の実態であると思う。大体、親子は年もちがい、人生経験において格段の差があるのだから、完全に理解し合うということがあろうはずはない。だから「親の心子知らず」であって当然である。しかしこの頃の親はだらしなくなって、「親の心子知らず」では我慢できないらしい。それでわざと「親の心子知らず」などといって、子供にぼやいたりする。
 「甘え」に関するほんの一部を紹介しました。ACのことを頭に浮かべながらというか「日本的AC」と呼ばれることの意味が少しですが分かったような気がします。

引用図書 土居健郎選集2 「甘え」理論の展開 :岩波書店 \3400
以上『Joy's wind』通信より抜粋